ファイナンス 2021年10月号 No.671
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世界文化遺産登録。今回はこれまでに見た世界文化遺産登録の伝統建築を中心にご紹介。1 法隆寺地域の仏教建造物(世界遺産登録年:1993年)世界最古の木造建築、法隆寺は国内で最も早く、奈良の中でも他に先駆けて世界文化遺産登録のミシュランの三ツ星観光地(今回ご紹介する世界遺産はいずれも三ッ星観光地)。仏が納められた建物は「金堂」と呼ばれ、古代は仏のための建築とそれを拝むための建物は別(中世に入ると一体化し、建物の呼称も「金堂」から「本堂」となる。)。現在の伽藍は西院及び東院と子院群で構成され、西院の主要建物である金堂・五重塔・中門・回廊は、中国や朝鮮にも残存しない初期の仏教建築様式。法隆寺建てたのは誰か?聖徳太子と答えると、ブー。正解は大工というオチ。実際、建てたのは宮大工である。宮大工初の文化功労者、西岡常一棟梁(宮大工棟梁の祖父に4歳頃から法隆寺の仕事場に連れて行かれ、宮大工はまずは土を知らなければとの祖父の意向で農学校に進学。戦前、戦中、戦後と20年続いた法隆寺の昭和の大修理では総棟梁の父の下で棟梁。薬師寺本堂、西塔も再建。)は、千三百年を生き続けた法隆寺の堂塔の「木はすべてヒノキであり、他の木はない。―ヒノキ一筋」、「スギなら七百年、八百年、マツなら四、五百年はもつ。しかし千年以上ビクともしないヒノキに勝るものはない。」という。しかも、歪みが生じないよう、芯もちを避けて、四つ割りの材を使う。金堂の柱はエンタシスの一番太いところで二尺三寸(約七十センチ)。これだけの柱を四つ割りでとれる原木の樹齢は少なくとも千年以上、直径二メートル前後のものが必要。斑鳩にはヒノキが豊富で、金堂は当初、周辺のヒノキ材を利用して建立を始めたが次第になくなり、主要部分以外では小さい木も使用。その金堂の柱が焼けたため、再建には木曽でも少なくなっていたヒノキを国が手当て。宮大工に代々伝わる口伝によると「木は生育の方位のままに使え』という。法隆寺金堂では寺院の正面である南側に見栄えの悪い面を置いていた。「木には陽おもてと陽うらがある。南側が陽おもてで、木は南東に向かって枝を伸ばすから、節が多く、木目は粗い。日光に慣れていない陽うらを南にして柱に据えたりすれば乾燥しやすく、風化の速度は速くなる。太陽にいわば訓練されている部分を、陽の指す方向におく。」、「こうした配慮が、堂塔の隅から隅まで行き届いていた。これが木の生命を伸ばす重要な技法でもあった。さらに山の頂上、中腹、斜面、南か北か、風の強弱、密林か疎林かで、それぞれに木質は異なる。そうした木の性も考慮に入れてみごとに使い分けた。まさに、「適材適所。」を実践」していたという。口伝はまた、「堂塔の木組は木の癖組み」という。「木はねじれ、反る。これまた生育の条件によってまちまちである。その木の癖を見抜き、簡単にいえば右に反る木と左に反る木を組み合わせて、力が相殺されるように用いる。」。更に、口伝では「堂塔の建立には木を買わず山を買え。」ともいう。「一つの山の木で、一つの堂、塔をつくるべしというのである。吉野の木、木曽の木と、あちこち混ぜて使ってはならない。木は土質によって性質が異なる。同じ環境の木で組んでいく」。大工道具について。西岡棟梁は、昭和の大修理の際、「焼けた金堂は、なんとしてでも飛鳥様式で再現したいというのが、国の方針」でもあり、実物がなかったヤリガンナも復元。作ってみたものの切れ味が悪く、刀鍛冶に法隆寺に残っていた飛鳥クギで鍛造を依頼。「できあがったのは、光り方からして力があった。-これだったんか。感じ入るばかりだった。」。扱い方は絵巻物が教えてくれ、「ヤリガンナは、…小手先では使いこなせない。一言でいえば、-ヘソで削れ」。「ヤリガンナの復元成功で飛鳥人の美感にやっと近づけた。スプーンで切り取ったような跡になるが、そこに、あたたかみ、ぬくもりがかもし出される。」、「「ヤリガンナで切った木の面を雨ざらしにしておいた。水ははじかれてしまう。電気カンナだと水がしみこみ、一週間もすればカビがはえてくる。」という。「手斧(ちょうな)」も復元。飛鳥時代、「大工道具の種類はそう多くはない。共通しているのは、両刃で、丸いということ…四角い片刃とちがって、…繊維細胞を破壊せずに削ることができる。…根本は、-木の命を伸ばす。これにあったろう。」という。このような宮大工の技のためか、「昭和大改修の当初、金堂や五重塔は、そのかなりの木、いやほとんど ファイナンス 2021 Oct.29日本の建築(法隆寺から新国立競技場まで)(上)SPOT

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