ファイナンス 2021年10月号 No.671
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変動により納税額が大きく変動する構造となっていた。そして、その上さらに、諸藩や旧幕府が作った膨大な借金の処理が残されていたのである。「草創期」と聞くと何だかベンチャー企業のような印象を勝手に受けるが、内実はまるで反対で、当時の大蔵省はゼロどころかマイナスからのスタートを強いられていたのである。上述した3つの課題に対し、大蔵省はそれぞれ、秩禄処分、地租改正、そして藩債処分という財政構造改革を断行し、近代国家としての財政的基盤を整備したのであるが、ここでは純造が深く関わり、一般には余りなじみのない「藩債処分」について解説したい。江戸時代、全国の諸藩は国内外から多額の借入を行ってきたわけであるが、明治政府は当初、藩債の処理については、各藩がそれぞれ償還年限の目途を立てて割賦返済すべき、つまり、「藩が作った借金は藩の自己責任で返せ」という方針であった。しかし、明治4年(1871年)の廃藩置県によって、政府自らが藩を消滅させてしまったため、政府は旧藩の債務を最終的に明治政府の責任において処理することを決定し、旧諸藩の抱える債務残高や藩札発行高を大蔵省に報告させる形で、旧藩の債務の総額を確定する調査を開始した。調査結果として届け出られた全国諸藩の債務の総額から、旧藩主の私的債務として明治政府が引き継ぐことが不適切な債務や、旧幕府が旧藩に有していた債務等を除いた総額は61,681千円で、これに外国債4,002千円、藩札発行高39,094千円を加えると104,777千円となった。これは、当時の経済規模の20~30%に匹敵する金額であり、また歳入の約1.6倍に及ぶ金額であった。この巨額の債務について、大蔵省は大要以下の処理方針を立てた。まず、藩債については、発行時期によって以下の3種類に分類し、対応した。ア.天保14年(1843年)以前の借入は、同年に幕府が棄捐令を発しているので、全て棄捐する(=償還しない)。イ.弘化元年(1844年)から慶応3年(1867年)までの借入は公債として継承するが、明治5年(1872年)を始期とする無利息50年の年賦償還とする。ウ.明治元年(1868年)から明治5年(1872年)までの借入も同様に公債として継承するが、元金3年据置かつ四分利付25年年賦償還とする。そして、藩札については、廃藩置県時点の「相場」または実勢価格によって政府紙幣と引き換える形で、政府紙幣への引き換えを順次進めたのである。新政府が過剰な債務を背負うことを避けつつ、債権者たる藩債や藩札の所有者の権利にも配慮した、リーズナブルな処理策と言えるのではないだろうか。(5)大蔵次官から貴族院議員へ純造は明治10年(1877年)に国債局長、同17年(1884年)に主税局長となった後、同19年(1886年)初代事務次官に就任、同21年(1888年)に退官した。その後、明治24年(1891年)には貴族院議員となり、明治33年(1900年)勲功により男爵を授かっている。純造は、黒野小学校約2,000坪をはじめ、地元に対し合計約8,100坪の土地を寄付するなど、生まれ育った岐阜・黒野村への貢献も忘れていない。明治43年(1910年)12月2日、純造は85歳の生涯を閉じた。青年の頃に立てた「笠松代官になる」という志は、そのままの形では実現しなかったが、立身出世の夢は立派に果たされたと言えるだろう。3渋沢の後継者となった次男、誠之助(1865~1942)ここからは、純造の次男、郷誠之助について、簡単に紹介したい。(1)誕生~留学まで慶応元年(1865年)、誠之助は父と同じく美濃国黒野村に生まれた。生まれてすぐ大坂町奉行勤めの父のもとに届けられ、維新後は麹町に住んでいる。少年時代はかなりやんちゃ坊主であったようである。16歳の時には、東京から故郷の黒野村までなんと無銭旅行をし、激怒した父から勘当されたというから、半端ではない。親に「面倒を見切れない」と思われたのかどうかは定かでないが、明治17年(1884年)、誠之助はドイ16 ファイナンス 2021 Oct.SPOT

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