ファイナンス 2021年10月号 No.671
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「笠松代官」と言われてもイメージがわかない方が大半だと思うので、少し解説すると、江戸時代、美濃国は10万石未満の多数の藩と幕府直轄領に細分化されて統治がなされており、直轄領には「美濃郡代」が置かれ、笠松(現岐阜県羽島郡笠松町)にある陣屋の代官が行政実務を取り仕切っていた。つまり純造は、武士になることはもとより、武士の中でも、今でいう首長になることを志していた、ということになる。江戸でははじめ大垣藩主の用人であった者に仕え、その後、旗本の牧志摩守義制(まき・しまのかみ・よしのり)に仕えた。牧が長崎奉行になると、純造も長崎に随行した。嘉永4年(1851年)、長崎奉行所にてジョン万次郎の取り調べを行い、寛大な処置で故郷土佐に帰している。また、同5年(1852年)には、「オランダ別段風説書」(江戸幕府がオランダ商館長に提出させた、海外事情に関する情報書類)を読んでペリーの来航を予知し、時の老中・阿部正弘に報告している。こうした仕事ぶりが評価されたのであろう、純造は文久元年(1861年)から慶応元年(1865年)にかけ、大坂町奉行の家老を務めている。順調にキャリアをステップアップさせていった純造であるが、実はこの段階でも幕臣にはなれていなかった。幕臣となるには御家人株を譲り受ける必要があったのである。純造が株を取得し、念願であった幕臣となったのは、慶応4年(1868年)1月のことであった。しかし、間もなく時代は大きな変革の時を迎える。明治維新である。(2) 新政府に入り、渋沢栄一、前島密らの 登用を薦める鳥羽・伏見の戦い、江戸無血開城を経て、明治新政府が樹立された。純造は江戸無血開城に関わったが、折角大枚をはたいて買った御家人株は、全く無価値となってしまった。だが、新政府の主要藩閥である薩長土肥には、事務・財務処理能力に長けた人材が不足していた。明治元年(1868年)9月、43歳の純造は、その能力を買われ、新政府に出仕することとなった。いつの時代、どんな国家にも、財政を担当する人間は必要であり、純造はいわば「居抜き」の形で用いられることになったと言えよう。明治2年(1869年)、純造は渋沢栄一や前島密といった旧幕臣を新政府の大隈重信に推薦し、登用させた。渋沢栄一は幕末に幕府のパリ使節団の一員としてヨーロッパに渡航、帰国した時は既に明治時代になっており、駿府城に謹慎していた徳川慶喜と面会し、そのまま静岡に留まり静岡藩に出仕、「商法会所」を設立していたが、純造の紹介により再び中央政府で働くことになったわけである。その後、渋沢は明治6年(1873年)に大蔵省を退官、実業界に身を投じ、「日本資本主義の父」と称される活躍を見せ、令和の世には大河ドラマの主役を張り、また新一万円札の顔となるわけだが、いわば「旧体制」の一員として徳川慶喜の下で働いていた渋沢を「新体制」の一員に引き入れた純造の功績は大きいと言えるだろう。(3)大久保利通に睨まれる一方で、旧幕臣が政府内で活躍するのを苦々しく思っていた人間がいた。「維新の三傑」の一人、大久保利通である。明治3年(1870年)、大久保は岩倉具視あての書簡の中で、「郷権大丞(ごんだいじょう)ヲ断然免職カ転勤二ナラス候」と糾弾している。しかしながら、大久保の後に大蔵卿となった大隈重信はこう述べている。「我輩が大蔵省に入って人材を求めて居ると、郷純造君が洋行帰りの渋沢君を推薦して来た。郷氏はなかなか人物を見る眼があった。氏の薦めて来た人物は皆良かった。前島君(前島密)も其の一人である。」このように、純造は決して派閥争いのために旧幕臣を集めたのではなく、ちゃんと能力主義で人材を推薦していたことが分かる。(4)草創期の大蔵省と藩債処分さて、純造は大蔵省でどのような仕事をしていたのだろうか。純造が特に心血を注いだのは、全国大名諸藩の「藩債処分」である。草創期の大蔵省は、歳出、歳入、累積債務、どれをとっても大問題を抱えていた。まず歳出は、旧幕藩に雇用された非生産的な武士階級への俸禄(給料)が、予算全体の3~4割をも占めていた。次に歳入は、米穀などの現物を中心とした租税制度のため、米価等の ファイナンス 2021 Oct.15初代大蔵省事務次官を知っていますか?SPOT

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