ファイナンス 2021年9月号 No.670
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郊外に造成した新市街・横浜横浜は郊外に造成した人口の街。これまで紹介した街道や河川を背景にした街とは性格を異にする。当時の街道筋といえば東海道である。安政5年(1858)、米国はじめ5か国と修好通商条約が結ばれ、「神奈川」が開港場とされた。東海道五十三次の3番目、神奈川宿のことで港町でもあった。しかし背後の神奈川台と海岸の間の平野が狭かったのと、外国人を幹線道路から離したかったことから、本牧半島の付け根、神奈川湊の入り江を挟んで対岸の横浜村の砂洲に市街地を造成。こちらを実際の開港場とした。現在の地形図の標高3m以上を着色すると元々の地勢が浮かんでくる(図1)。臨海工場地帯は別として、色が着いていないところはほぼ海だった。横浜駅しかり、今の関内・関外は入り江になっていて、港の見える丘公園の麓から本町通に沿って砂洲が伸びていた。横に長い浜なので「横浜」だ。中華街の北辺の開港道から太田町通が砂洲内側の海岸線だった。砂洲を基盤に造成した新市街は4方を水に囲まれた「島」だった。元町側の中村川、桜木町側の大岡川そしてJR根岸線と首都高速のルートは運河が掘られていた。馬車道と伊勢佐木町通をつなぐ吉田橋のたもとに関所があって出入が管理され、島の内側を関内、外側を関外といった。まるで長崎の出島のようだ。図2の市街図は島状の市街地をイメージするため首都高速を省略し代わりに当時の水路を書き込んだ。関内の横長エリアは日本大通を軸に左右に分かれ桜木町駅側が日本人街、元町側が外国人居留地だった。海側の突き当りには運上所と波止場が置かれた。波よけのため湾曲した形から象の鼻と呼ばれた。馬車道・本町の近代建築群明治5年(1872)5月、新橋・横浜間にわが国初の鉄道が開通。ここで横浜駅とは今の桜木町駅である。神奈川宿から対岸の横浜まで築堤を渡し駅を整備した。1か月遅れて現・横浜駅の前身となる神奈川駅が開業。場所は現在地よりも北、宿場の街道筋の南面にあった。現在地に移転したのは昭和3年(1928)である。根岸線が延伸されるまで桜木町駅は大岡川に顔を向けた頭端式の駅だった。多数の線路が扇状に広がっており、その一部は今の汽車道を通って新港埠頭に、一部は関内に入り込み、生糸検査場に直結していた。近代横浜の関内の縦軸が馬車道である。東海道から分岐した横浜道が吉田橋に着く。その吉田橋から続く街路で、外国人が馬車に乗って通ることからそう呼ばれた。対して横軸が海岸に並行する本町通だ。鉄道が開通し、駅から弁天橋を渡って関内に入り本町通に至72 ファイナンス 2021 Sep.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第19回 「神奈川県横浜市」近代レガシーを公園街路でむすぶ面的活性化図1 標高3m以上を色付けした周辺地形図(出所)国土地理院地図に筆者加筆半島本牧連載路線価でひもとく街の歴史

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