ファイナンス 2021年9月号 No.670
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個独自の文化をかたくなに表現しつつ、どことなく風通しがよくて外に開けた世界を予想している・・」(「新編・琉球弧の視点から」(朝日文庫 1992年))という】と。島尾には、1976年に多摩美術大学で行った集中講義をもとにした『琉球文学論』(2017年)があり、その中の「第五章 琉球弧の歴史」で、東北と琉球弧について考察している。袋中上人のほか、笹森儀助(青森出身)、加藤三吾(弘前出身)、上杉茂憲(山形出身)、岩崎卓爾(仙台出身)、さらには自身(福島「出身」)にもふれて、「どういうわけか東北の人は沖縄に非常に関心を持ちやすい状況にある」としているのが目を引いた。最後の1人は、松江春はる次じである*12。会津藩士の子息で、南洋興発の創業者であり、初代社長。サイパン、テニアンで製糖事業を営み砂糖王と呼ばれた。兄は、豊とよ寿ひさで、板東俘虜収容所長として知られる。春次は、製糖会社を転々とし、台湾での製糖業で大きく成功を収めた。しかし、自身が描く南洋開発の夢のため退社、サイパン島に渡る。島では、国の入植事業に失敗した1千人の日本人が飢えていた。島の調査で製糖事業の成功を確信した春次は、飢餓を救うため南洋興発株式会社を設立し、開拓に着手。自ら陣頭で指揮を執り、資金難や病害虫などの苦難に立ち向かった。やがて製糖事業に成功し、5万人もの入植者を迎えたという。沖縄からの移民も多かった*13。成功した春次は、成金趣味を持たず質素な生活を続け、育英事業に私財を投じた。自身の苦難の経験から「青年に投資する」を持論とし、故郷の会津工業高校には33万円(現在の数億円に相当)を寄付した。同校は機械科を創設したほか講堂などを大増築し、多くの人材を輩出した*14。なお、会津に関連してここで触れておきたいのが、会津藩の鶴ヶ城の自力再建についてである。鶴ヶ城は*12) 福島県会津若松市ホームページ掲載「あいづ人物伝」の「松江春次」より。 https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/jin12.htm*13) マーク・ピーティ著『植民地―帝国50年の興亡』(読売新聞社 1996年)の114頁、264頁以下を参照。ピーティは当時の移民の圧倒的な増加について、「もしも太平洋戦争がなかったら、彼ら(土着の住民)は識別可能な民族集団として今世紀を生き残ることはできなかったであろう」と指摘している。これは、移民した側の視点のみが取り上げられがちな今日の沖縄に、新たな視点をもたらす言葉でもある。*14) 参照:宮脇俊三著『失われた鉄道を求めて』(文春文庫)は、サイパン、ティニアン(テニアン)の砂糖鉄道を紹介している。なお、沖縄県営鉄道も取り上げられている。作家の中村彰彦氏が当時、宮脇氏の担当編集者であった。*15) 石井幸孝・上山信一編著『自治体DNA革命―日本型組織を超えて』(東洋経済新報社 2001年)は、福岡市および国鉄民営化の経験を取り上げ、自治体職員が「親方日の丸」的な体質からどのように脱却すべきかを説く。福岡市が設立した公益財団法人福岡アジア都市研究所(URC)(将来の都市戦略を提言する研究機関)の活動なども参考になろう。戊辰戦争後の明治初頭に、戊辰戦争時の損害が大きかったため取り壊されたが、多くの人々の尽力(寄付)により、1965(昭和40)年(9月17日竣工)に天守閣が博物館として再建されている。歴史を紐解けば、2019年の火災で焼失した首里城正殿の再建にも大いに参考になるかもしれない。(3)那覇と福岡筆者は、これもたまたまの御縁で、2001年2月から2003年7月まで、福岡市役所に出向する機会を得た。そのため、那覇と福岡についても調べてみた。歴史的には、朝鮮半島との交易に博多商人が介在したことがはっきりしているが、中世博多商人は那覇も1つの拠点として活発に貿易活動していたと推測される。また、現在の福岡市と那覇市の共通点として、ツインシティ(首里と那覇、博多と福岡)であること、港湾・空港が都市中心部に近接して所在することが挙げられよう。さらに、福岡は大きな河川がないことから、用水の確保に苦労した歴史を持ち、結果として大量の工業用水を必要とするような第二次産業は発展しなかった。沖縄、特に那覇の今後の発展を考えるうえで、政令指定都市の雄として発展を続ける福岡市の都市政策について、過去の行政経営改革の取組みも含めていろいろと研究してみることは極めて有意義ではないだろうか*15。なお、筆者が福岡市役所に出向した際、総務企画局長として担当した仕事の1つに、福岡アジア文化賞の事務がある。着任してすぐの2001年の第12回福岡アジア文化賞は、大賞がムハマド・ユヌス氏(グラミン銀行総裁、2006年ノーベル平和賞受賞者)、学術研究賞が速水佑次郎氏(開発経済学)であった。このころ、沖縄振興に関わるとはまったく想像していなかったが、この2人の謦咳に接したことは、沖縄振興を考22 ファイナンス 2021 Sep.SPOT

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