ファイナンス 2021年8月号 No.669
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2.本稿の趣旨ただ、それらの側面からだけマネロンが切り取られた場合、この犯罪類型の本質と、対策に向けた指針の取り方を見失う可能性があることも、また事実である。まず、述べた通りマネロンは殺人や窃盗と違い、伝統的に人間社会が「当然に悪い」としてきた行為ではない。洗浄する対象の収益を上げる麻薬密売等の犯罪は悪であるが、そこからの収益を仮装する行為自体を、厳しく処罰の対象とするのは、人類史の中ではむしろ最近の出来事であり、どちらかと言えば「非」常識に属するものである。なぜそれが現在の形に至ったのかを、血肉として理解しなければ、マネロン罪の本質的な政策意義は見えて来ない。次にマネロン、更により広く地下資金対策の分野における国際的な制度の調和化は、未だ国際社会としても暗中模索で取り組んでいる、「ワーク・イン・プログレス」の構想であり、かつ基準作りを担うFATFは、日本自身もその主体として参加し、他国の評価者の側にも回る相互的な枠組みである(なおFATFについては、後の章で詳述する)。国際基準への適合性確保を目指すことは当然の前提として、更にその基準自体や、それに基づく各国の共働関係をどのように強化して行くのかを、主体的に考えて行かなければならない。国内で対策を講ずることとなる事業者にとっても、表層の理解だけでは済まない事情がある。現在の地下資金対策は、役所が定めたルールを順守していれば足りるものではない。それぞれの機関が適正に自身を取り巻くリスクを把握し、それに従って合理的にリソース配分を行い、対策を講ずることを求めている。言われたことをきちんとやる、という受動的な発想ではなく、正に能動的な行動が期待されており、これは、「リスクベース・アプローチ(RBA)」と呼ばれる。そのためには翻って、地下資金対策というものの本質を理解しておく必要も出て来る。本稿は、世界及び我が国における地下資金対策について、その現状と課題を明らかにしようとするものである。この分野においての既往の文献は、上記の内でも特に第三類型、つまり、金融機関をはじめとした民間事業者がどのように規制に対応するか、というコンプライアンス・マニュアルが中心である。これらは、実務の要請として当然に必要なものではあるが、他方で、全体像が見えない中で、予防措置という局所的な細論に、いきなり迷い込んでしまう危険性もある。加えて、これまでの文献はともすれば記述が無機質になりがちで、物事の実態を、手触り感を持って理解しづらいという点にも、問題意識を感じていた。およそ制度というものが現在の姿であるのには、歴史的な理由がある。そして、いかに難解に見える制度でも、その経緯を知れば理解が格段に進むことも多い。ちょうど、複雑な多色刷りの版画も、色ごとの版木を一つずつ見ればその構成をより容易に把握できるようなものである。更に何より重要なことは、この分野が犯罪やテロといった、文字通り人の血や涙が流れる世界の事象を扱っている以上、その裏にはその他の政策分野にも増して、紛れもない人間の営みがあるということである。そして、そのような社会悪を抑えようと構築された枠組みも他ならぬ人間が作ったものであり、そこには制度の発展段階ごとに、良きにつけ悪しきにつけ、キー・パーソンと呼ぶべき人物像がある。当然ながら人間が作った制度である以上、完璧ということは決してあり得ない。既に述べた通り、この分野の国際的枠組みも、不断に再検証と改善の対象とされるべきものである。本稿を通じて、地下資金対策を、その発展して来た歴史と将来に向けた課題、そして隣接分野との関係性の中に位置付け、読者にもリアリティを感じられる形で全体像を浮かび上がらせることを試みたい。冒頭で、縦軸・横軸の構成で整理したが、(1)狭義のマネロン、(2)テロ資金、(3)核兵器等の開発資金、という3本の対策の柱は、それぞれ性質を異にしつつも、(1)と(2)は広く刑事政策としての位置付けにおいて共通点を有し、(2)と(3)は、外交・安全保障の一翼をなすという点において、重なりを持つ(横軸)。そして、地下資金対策は各種関連条約や、FATFで策定された基準といった国際的規範が多くの場合先行し、それが各国において制度化・調和化された上で執行され、更にその延長として、各国をまたいでの司法共助等の共働が行われるという形で、重層的に発展している(縦軸)。各章ごとの論点が、それぞれの軸のどこに位置付けられるのか、常に「見取り図」を意識して読み進めて頂ければと思う。 ファイナンス 2021 Aug.35還流する地下資金 ―犯罪・テロ・核開発マネーとの闘い―連載還流する 地下資金

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