ファイナンス 2021年7月号 No.668
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長崎市1641年、無人となった出島に平戸で貿易をしていたオランダ商館が移され、安政の開国までの218年間、出島ではオランダとの貿易が続けられました。オランダとの貿易ではヨーロッパの商品(毛織物、ガラス製品など)やアジア各地の商品(生糸や砂糖など)が輸入されました。日本からの輸出品は江戸初期には主に銀でしたが、その後は金、17世紀後半から幕末までは銅が主な輸出品でした。その他、樟しょう脳のう、陶磁器なども輸出されました。明治期、開国によりその役割を終えた出島の周囲は次第に埋め立てが進み、扇状の島は姿を消しました。現在、長崎市が出島を江戸時代の姿に戻す復元整備事業を進めており、出島表門橋の架橋や鎖国時代の建物の復元が行われています。復元整備事業が進む現在の出島(3)唐貿易(オランダ船を上回る唐船の入港)江戸時代になると長崎港には多くの唐(中国)船が来航しました。唐人は長崎市中に住んでいましたが、密貿易が多発したため、幕府は1689年に唐人屋敷を建設し、そこに唐人を居住させました。長崎港への外国船の入港隻数は1641年から1859年までの約220年間で唐船が5,431隻に対しオランダ船は617隻と、オランダ船の9倍もの唐船が入港しました。唐からは生糸や織物、砂糖などが輸入され、長崎からは銀や銅を輸出しました。唐船が運んできた貿易品は長崎市内の町人の土蔵におかれていましたが、火災から守るため1702年に出島近くの海を埋め立てた「新地蔵所」を造り、そこに置かれるようになりました。オランダ貿易では「出島」に人も住み、貿易品も置かれましたが、唐貿易では人は「唐人屋敷」、貿易品は「新地蔵所」と別々の場所でした。長崎港之図(長崎歴史文化博物館収蔵)(4)上海航路(下駄履きで上海へ)明治維新後の長崎港は江戸時代のような貿易独占という特権はなくなりましたが、中国大陸に一番近い拠点港として賑わいは続きました。1923年(大正12年)、日華連絡船の「長崎丸」と「上海丸」が長崎・上海間の運航を開始しました。両船とも速力が21ノットと当時としては高速の貨客船で、毎週2航海運行、上海までの所要時間は26時間、運賃は当時のお金で18円(3等)でした。長崎にとっては東京へ行くよりも上海が距離的にも時間的にも近く「下駄履きで上海へ」と言われるほど身近で、上海航路の名で親しまれました。長崎港に停泊する長崎丸(長崎歴史文化博物館収蔵)太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)5月、長崎丸が長崎港への入港直前に港口付近で機雷に触れ沈没、同年11月には神戸丸(1941年上海航路に就航)が上海東方海上において衝突沈没しました。更に翌年には上海丸が揚子江東方海上で衝突沈没し、就航以来82 ファイナンス 2021 Jul.連載各地の話題

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