ファイナンス 2021年7月号 No.668
63/92

ネジメント大牟田」が保留床を取得する計画だった。再開発組合が平成11年(1999)に発足。しかし、採算面の課題を指摘され資金調達に難航した。大牟田市も財政支援する余裕がなかった。平成10年(1998)、臨海部の貯炭場跡地のテーマパーク「ネイブルランド」が開園3年で破たん。運営主体の第三セクターに損失補償をしていた負債を市が弁済することとなったのだ。その後紆余曲折を経て再開発はとん挫。補償金の支払も確定し、市は平成13年(2001)以降10年かけて約29億円を支払うこととなった。そして刀折れ矢尽きたかのように松屋百貨店が閉店。平成16年(2004)の出来事である。2000年前後といえば、台頭する郊外大型店に対抗し駅前や中心市街地に再開発ビルを建てる動きが全国各地で見られた。平成11年(1999)、岡山県津山市に8階建の「アルネ津山」が開業。第三セクター「津山街づくり株式会社」の運営だった。平成13年(2001)には青森市に9階建の「アウガ」ができた。運営は第三セクター「青森駅前再開発ビル株式会社」である。意図に反して駅前の賑わいは戻らず、商業フロアは平成29年(2017)に終了。数度の再建そして精算を通じ青森市は多額の出費を余儀なくされた。古きを転じて熟成の味わいに平成14年以来最高路線価の所在地は変わらず現在に至る。令和2年の価格はm2当たり53,000円だった。昭和40年の水準に戻ったが当時はかけそば50円の時代だ。同じ価格でも一等地の値打ちは当時より低い。かつての最高路線価だった新栄町通は31,000円。銀座通は28,000円だった。ゆめタウン前はこれより高くm2当たり46,000円だ。線路の東側の路線価が西側に比べ高くなったので、「一等地」が戦前に戻ったように見える。ただし以前と違って中心が明確ではない。駅前からゆめタウンまでの路線価が緩やかに高い。中心地の性格が以前と変わったようだ。市の活性化基本計画によれば、中心市街地をさらに絞り込んだ活性化エリアの人口が、平成20年(2008)の2,793人を底に増加に転じた。最近伸び悩んでいるが、それでも令和2年4月の3,044人は12年前の水準を1割弱上回っている。平成28年(2016)の調査によれば、10階建以上のマンションが中心市街地に14あり、そのうち5つが新栄町駅とゆめタウンの間にある。以前は三井縫製の工場だったところだ。他の地方都市と同じように、大牟田も街の中心が移転している。ただし互いに徒歩で行き来できるほどの距離なので街が拡散していない。広大な駐車場を備えたゆめタウンは明らかに郊外型モールだが中心市街地にある。車がなくとも買い物に支障ない。近隣にマンションが相次いで建ち、居住と買い物が一体のコンパクトな街になった。これも市街地内にまとまった工場用地があったからだ。他の都市で同じような開発をしようとしてもよほど都心から離れなければ難しい。以前の中心地も少しずつ変化している。ただしかつての商業中心地としてではなく、個性的なショップやレストランが集まる街へだ。平成27年(2015)、大牟田市と商工会議所の「街なかストリートデザイン」事業が始まった。空き店舗オーナーと出店希望者をマッチングする取り組みだ。出店計画の磨き上げなど定番支援もあるが、興味深いのは店舗改装の住民参加型DIYイベントだ。床仕上げ等のDIY作業を通じ、開店に先立ち店のファンを増やすのが狙いで、ひいては街への愛着も深まる。地元まちづくり会社のリーダーシップも奏功し徐々に成果が現れてきた。十字路のイタリア料理店を皮切りに、事業の呼び水効果も含め13店舗が新たに出店。銀座通の空き店舗が埋まってきている。古いものも手を加え愛着を持てば熟成の味わいに転化する。かつての工場跡も空き店舗もやり方次第でまちづくりの弱みにも強みにもなるのだ。一昨年、かつてメインストリートを往来していた路面電車の車両が大牟田駅の西口広場に設置された。路面電車は昭和27年(1952)に全廃されていた。今年、内装がリニューアルされカフェ営業が始まった。惜しまれつつ閉店した銀座通の老舗喫茶店の味を引き継いだコーヒーが看板メニューだ。プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融 ファイナンス 2021 Jul.59路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

元のページ  ../index.html#63

このブックを見る