ファイナンス 2021年7月号 No.668
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戦後は銀座通が栄えた。確認できる最も古い昭和32年(1957)の最高路線価は松屋百貨店の前の道路だった。昭和47年(1972)の記録では「本町1丁目生眼堂前通」とある。松屋と生眼堂が向かい合う通りを「銀座通」といって当時の一等地だった。図4の写真からその賑わいぶりがうかがえる。奥に見えるビルが松屋百貨店で、開店は戦前の昭和12年(1937)。戦前戦後を通じた地域一番店だった。「めがねの生眼堂」は今も同じ場所で営業を続けている。昭和40年代、伝統の銀座通にライバルが現れた。新栄町エリアである。西日本鉄道は大牟田駅が昭和14年(1939)に開業、そのひとつ手前に中心地の最寄り駅として栄町駅があった。その近くの工場跡地が再開発で商業エリアになった。戦前の三池紡績、鐘紡大牟田工場、戦後の三井化学だった場所だ。手狭だった栄町駅は移転され新栄町駅となった。新駅とセットで新しい街ができた。まずは昭和43年(1968)にサンリブ大牟田が開店。昭和45年(1970)にはダイエー大牟田店、駅ビルのエマックス、そして北九州に本店を構える井筒屋百貨店が出店した。昭和46年(1971)には総合スーパー“さんえい”、昭和52年(1977)には大牟田パレスが出店。大型店だけで店舗面積24,000m2が一時に増えた。10,000m2を若干上回る松屋百貨店と銀座通界隈の商店街が受けたインパクトは相当なものだったろう。新市街の開発を受け「大牟田井筒屋西側新栄町通」の路線価は上昇し、出店が一巡した昭和53年(1978)にはトップに並ぶ。その5年後の昭和58年(1983)には最高路線価の座を奪取した。車社会化とともに昭和の中心地は衰退私鉄ターミナル立地の新栄町通のピークは平成6年(1994)。平成に入り、車社会化による商業スタイルの変化が姿を現しはじめてきた。自家用車の普及率が急上昇し、90年代後半には2台目を持つ世帯が増えてきた。商業も大きな駐車場を備えた郊外型が有利になる。従来型の不利は否めず、まずはダイエー大牟田店が平成7年(1995)に閉店。さんえいが平成11年(1999)に閉店した。そして平成13年(2001)、三井三池製作所の跡地にゆめタウンが進出。店舗面積は約38,000m2だった。新栄町駅前の大型店の面積をさらに上回る規模の商業施設が線路の向こう側にできた。新栄町の井筒屋大牟田店は閉店し、ゆめタウンのテナントになった。新栄町駅前の路線価の下落に歯止めがかからず、大牟田パレスが撤退した平成14年(2002)、最高路線価の所在地が大牟田駅前に移った。所在地名は「不知火町1丁目国道208号通り」である。駅前が発展したというより、新栄町駅前に比べ下落テンポが緩かったからと解釈できよう。大牟田駅前は商業中心地というよりは遠距離移動の拠点としての意味合いが強い。車社会化から受ける影響は商業中心地ほどではない。他方、銀座通勢にも対抗策があった。大正町一丁目の松屋百貨店を含む一帯を再開発し、同店を核店舗に2棟5万m2超の複合施設を建てる大プロジェクトだ。大牟田市が半分出資する第三セクター「株式会社タウンマ図5 路線価の推移ゆめタウン前①銀座通2001ゆめタウンの開店1970井筒屋の開店2004松屋の閉店2011イオンモールの開店昭和60年平成12年0400300200100196520202015201020052000199519901985198019751970(千円)(出所)国税庁「路線価図」から筆者作成③駅前通②新栄町通図6 平均乗降客数・世帯当たり乗用車保有台数の推移昭和45年JR大牟田駅西鉄新栄町駅西鉄大牟田駅乗用車保有台数(軽自動車含む・右目盛)平成12年0.02.01.41.21.00.80.61.51.00.51965182015201020052000199519901985198019751970平均乗降客数(万人/日)(台/世帯)(出所)大牟田市統計書等から筆者作成58 ファイナンス 2021 Jul.連載路線価でひもとく街の歴史

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