ファイナンス 2021年7月号 No.668
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市営水道より三池炭鉱専用水道が早かった。創設は明治42年(1909)。大牟田市営水道の「市水」に対し「社水」と呼ばれ、社宅周辺の一般家庭にも給水していた。大牟田市の資料によれば最盛期には市内給水人口の15%に及んだそうだ。市営水道に完全に一元化されたのは平成26年(2014)である。学校もあった。県立三池工業高校の前身は明治41年(1908)設立の三井工業学校である。同じ頃に設立された三井三池尋常小学校は幾たびの再編を経て今の天の原小学校の系譜に連なる。また三井は炭鉱の創業に合わせ三井病院を開院している。平成14年(2002)に三井鉱山から福岡県社会保険医療協会へ経営を移管。社会保険大牟田天領病院となった。大牟田の中核病院のひとつで規模は国立病院機構大牟田病院に次ぐ。五月橋、銀座通から私鉄ターミナルへ一等地の変遷をみてみよう。明治以来の伝統的な中心は大牟田川と幹線道路が交差する五月橋である。現在、五月橋には三井住友銀行があるが、戦前は三池銀行の本店だった。明治19年(1886)の創業で、本店を大牟田に移したのは明治29年(1986)。その後、昭和18年(1943)に帝国銀行が営業を譲り受けた。帝国銀行は三井銀行と第一銀行が合併した銀行で、戦後再び分かれて三井銀行になった。まず、大牟田の中心街は南側の駅に向かって広がった。明治24年(1891)、後に国鉄となる九州鉄道の大牟田駅が開業。現在地の不知火町に移転したのは明治44年(1911)で、開業当初は今より五月橋に近い築町にあった。築町界隈は戦前から銀行が多く、福岡銀行大牟田支店の前身行もあった。十七銀行が昭和7年(1932)に大牟田支店を築町に新築。進出自体は大正8年(1919)で当時は現存する銀行とは別の「福岡銀行」だった。大正12年(1923)に十七銀行に吸収された。もうひとつの前身行の筑邦銀行(現存する筑邦銀行とは別)が十七銀行の向かい側にあった。昭和6年(1931)に移転してきたときは柳河銀行といい、再編で昭和16年(1941)に筑邦銀行となった。昭和20年(1945)、福岡銀行の発足と同時に大牟田駅前の不知火町に移転した。五月橋、築町を貫く幹線道路が当地のメインストリートで三井炭鉱の事務所もあった。昭和2年(1926)には路面電車が開通。昭和16年(1941)に吸収合併され西日本鉄道の大牟田市内線になる。移転後の大牟田駅に近い方は公共施設が多く立地した。市庁舎は昭和11年(1936)の竣工で近世式鉄筋コンクリート4階建。中央の塔屋がシンボルの近代建築である。戦災でほとんど焼失した中で貴重な歴史遺産となった。図4 最盛期の大牟田銀座通(出所)大牟田市提供 ファイナンス 2021 Jul.57路線価でひもとく街の歴史五月橋路面電車跡大牟田駅新栄町駅栄町駅跡十七跡筑邦跡三井住友ゆめタウン築町旭町井筒屋跡生眼堂三池縫製跡三池紡績跡三井三池製作所跡大牟田駅跡①②④有明町福岡跡大牟田川図3 市街図(出所)筆者作成。マーカー付き道路の丸数字は図5のグラフ凡例に対応している連載路線価でひもとく街の歴史

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