ファイナンス 2021年7月号 No.668
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巻頭言劇場という蔵に守られて…。人形浄瑠璃 文楽座人形遣い桐竹 勘十郎1684年、大阪道頓堀に「竹たけ本もと座ざ」が開場した。人形浄瑠璃の芝居小屋である。座主は義ぎ太だ夫ゆう節ぶしの元祖、竹たけ本もと義ぎ太だ夫ゆう。頃は徳川五代将軍綱吉の時代。大阪では道どう頓とん堀ぼりに五座の櫓が並び建ち、江戸の町では江戸三座が賑わって、芸能文化が花を咲かせる時代であった。五座の櫓とは、正面大屋根に張り出した櫓を設け、一座の紋を掲げた劇場の事で、この櫓が「官許」の印、公に許可された劇場の証である。浪なにわざ花座、中なか座ざ、角かど座ざ、朝あさ日ひ座ざなどの名は近年まで続いた。江戸の芝居小屋は江戸三座に代表される歌舞伎芝居の小屋に人気があり、中なか村むら座ざ、森もり田た座ざ、市いち村むら座ざが競い合った。江戸ではこの三座が櫓を掲げた官許の小屋であったが、「控え櫓」という制度もあり、この三座が何かの理由で上演出来なくなった時には、代わって幕を開けられる小屋があり、中村座には都みやこ座ざ、森田座には、河か原わら崎ざき座ざ…などと決められていたという。私は、人形遣いの家に生まれたが、父の仕事にはあまり興味がなく、母に劇場に連れて行ってもらっても、真剣に観てはいなかった。文楽の劇場に初めて行ったのは道どう頓とん堀ぼり文ぶん楽らく座ざで、なぜか子供心に正面のデザインが好きだった。土蔵建築に用いられるナマコ壁風の格子模様で、屋上には、あの櫓も設けられていた。土蔵は中の物を、火や水や風などから守る事に優れている建物。劇場もまた、そういう役目があると考えてのデザインだったのかも知れない。後に朝日座と名を変えるこの文楽座は、1955年(昭和31年)に名建築家・吉よし田だ五いそや十八氏の設計で落成した。その後私は、中学2年生となった1966年(昭和41年)5月、人形遣いの人手不足でその朝日座に通う事になる。舞台の手伝いをする為に、中学生、高校生が6名集められた。それまで遊び半分に観ていた舞台は、裏に回れば全く違う世界で、その迫力に圧倒された。父の仕事をちゃんと理解出来ていなかった私は、この時初めて人形遣いという仕事と、その仕事場の厳しさを知り、人形遣いの道を歩む事になる…この年、日本の演劇界に記念すべき大きな出来事があった。11月1日東京三宅坂に我が国初の国立劇場が完成、開場したのだ。明治時代に要望が出てから実に百年、紆余曲折の末、遂に実現した。杮落しの文楽公演には学校があり参加出来なかったが、翌年には、学校の許可を得て参加する事が出来た。先ず驚いたのは、その規模と設備、そして外観であった。東西96メートル、南北100メートルの建物に大小の劇場と稽古場や展示室などの関連施設が整っていた。そしてその外観は、奈良東大寺正倉院に代表される校倉造りで、古来の倉の工法だ。朝日座のナマコ壁、そして国立劇場の校倉造り…どちらも中で行われる様々な芸能を大切に守るようにデザインされている共通点に、私は、一人喜んだ。あれから55年。朝日座は姿を消し、大阪には国立文楽劇場が出来、国立演芸場、新国立劇場や国立能楽堂、国立劇場おきなわも完成している。今年55周年の国立劇場は、あと2年程で新しく生まれ変わる。各設備の老化や耐震の為の大改築が終了するのは、8年程先になるとの事。私は、75歳になっているが、我が国を代表する二代目の国立劇場に大いに期待して、杮落しの舞台を今から楽しみにしている。国土も狭く、資源も豊富ではないが、日本には脈々と受け継がれた素晴らしい文化の力がある。ファイナンス 2021 Jul.1財務省広報誌「ファイナンス」はこちらからご覧いただけます。

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