ファイナンス 2021年6月号 No.667
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1.イノベーションと通貨の発展*1(1)鋳造貨幣の誕生、中国銭の流入、そして紙幣の登場*2通貨は、人々の社会・経済活動の最も重要なインフラの一つであるが、その歴史を振り返ると、通貨自体が、その時々のイノベーションの成果を取り入れつつ、社会・経済活動における取引実態やニーズも踏まえ、競争的に発展してきた。我が国では、7世紀ごろまで米・塩・布などが物品貨幣として利用されていたが、中央集権的な律令制度の構築を進める中で、都を中心とした貨幣制度の導入が検討され、鋳造技術の発展というイノベーションも背景として、7世紀後半、我が国初の国産貨幣として「富本銭」が誕生した*3。その後、「和同開珎」を含めた12種類の銅銭が鋳造技術により製造されるなど、銅銭の利用が広がりを見せた。左:富本銭(提供:造幣局)右:和同開珎(銅銭)(提供:造幣局)しかし、国内の銅生産の不調などにより、958年に発行された乾元大宝を最後に銅銭の発行は停止され、再び米・布といった物品貨幣による経済に逆戻りする。こうした中、12世紀半ば以降、中国から流入した銅銭が国内に広く流通し、数世紀にわたり国家による貨幣製造が行われない時代が続いた。当初、朝廷は、物価・財政への影響を懸念して中国から流入した銅銭の利用を禁止したが、国内経済への銅銭の浸透を受けて、その後解禁せざるを得なくなった。16世紀に入ると、戦国時代の下で、諸大名が軍事資金の調達を目的として金山・銀山の開発を積極的に行い、国産貨幣の製造が再び活発化した。これに伴って鉱山技術のイノベーションも進み、日本は世界有数の鉱山国となった。そし*1)本稿の意見に関する部分はすべて筆者の私見である。*2)高木久史『通貨の日本史』(中央公論新社、2016年)及び日本銀行金融研究所貨幣博物館HP(https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/)を参考に記述。*3)なお、富本銭より前に「無文銀銭」と呼ばれる金属貨幣の使用が確認されているが、近隣国から輸入されたものと考えられている。*4)造幣局あゆみ編集委員会『造幣局のあゆみ』(独立行政法人造幣局、2010年)て、この時代に開発された金山・銀山を、関ヶ原の戦いを制した徳川家康が接収し、金座・銀座と呼ばれる常設製造機関において大量生産体制を構築することにより、1601年に「慶長金銀」と呼ばれる金貨・銀貨の製造開始を迎える。さらに、江戸幕府は1636年に銅銭である「寛永通宝」を発行し、幕府が発行する金・銀・銭(銅)の三貨が出揃い(三貨制度)、日本独自の貨幣体系が成立した。一方、ほぼ同じ時期に、国内における製紙・印刷技術の発達を背景として、1600年ごろ、日本初の紙幣である「山田羽書」(銀貨の預り証)が民間の発行する私札として登場した。その後、財政補填を目的として、「福井藩札」などの藩札が各藩で発行され、金属不足や地域の通貨需要の高まりを受けて、貨幣にかわり各地で流通するようになった。こうして、金・銀・銭(銅)から構成される貨幣と藩札などの紙幣が併存する時代に移行していった。(2)近代通貨制度の導入と偽造防止技術の向上明治維新を経て、新政府は、混乱した通貨制度を立て直し、近代的な通貨制度を構築するため、1871年、新貨条例により、新たな通貨単位を「円・銭・厘」と定め、1円=金1.5グラムとする金本位制を採用した。新政府は、同年に創業した造幣寮(現・造幣局)において、蒸気を動力として意匠を圧印する近代的技術を備えた洋式設備を導入し、新しい貨幣の製造・発行を行った*4。永楽通宝(提供:造幣局)イノベーションと通貨、そしてCBDC理財局 国庫課 課長補佐(総括・企画) 楢崎 正道*1左:寛永通宝(提供:造幣局)右:福井藩札(提供:国立印刷局お札と切手の博物館)慶長大判(提供:造幣局) ファイナンス 2021 Jun.3新しい通貨 CBDC特集

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