ファイナンス 2021年6月号 No.667
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東北出身者の心の駅といえば上野だが、筆者にとっては大宮だ。少年時代、夏休みに仙台から上京したとき東北新幹線の終点が大宮駅だったからだ。都心へはリレー号に乗り換えた。当時の印象は長く残り、「埼共連」の看板の黒いビルが見えると大都会東京に来た気がした。まさに大宮は首都圏の玄関口だった。そして長らく大宮が奥州街道の宿駅だと思っていた。鉄道と製糸のまち当時の埼玉県大宮市、平成15年(2003)に政令指定都市になってからはさいたま市大宮区だが、「大宮」の名は当地に鎮座する氷川神社を「大いなる宮居」と呼んだことに由来する。当社は武蔵国の一宮、すなわち埼玉県、東京都、川崎および横浜市の総氏神だ。氷川信仰を背景に大宮は門前町として栄えた。寛永5年(1628)、氷川神社の参道から分かれ中山道が通された。板橋、蕨、浦和に次ぐ中山道六十九次4番目の宿駅が置かれ、大宮は宿場町としても賑わった。しかし武士の時代の終焉と同時に衰退し、明治2年(1869)には人口1,000人を割り込む。街道から鉄道の時代になり、明治16年(1883)、中山道に沿って工事を進めていた日本鉄道が現在の高崎線のルート、上野・熊谷間で開通したが、浦和駅の次が上尾駅で大宮は素通りだった。危機感をおぼえた地元有志の請願で大宮に駅ができたのは明治18年(1885)。それも先行開通した中山道線から東北方面に分岐する駅となった。それから9年後の明治27年(1894)には日本鉄道が大宮工場を開設した。国有化後は国鉄大宮工場となる。交通路としてだけでなく地元の主力産業の意味でも大宮は鉄道の町となった。大宮駅の開業と同年に赤羽駅から分かれ品川駅に至る支線が開通。一部が今の山手線となっている。既に開通していた官営鉄道との連絡で、群馬の養蚕地帯と横浜の生糸積出港が結ばれた。そして中間点の地の利から大宮に製糸工場の進出が相次いだ。長野県岡谷を発祥とする片倉製糸が明治34年(1901)に進出。当初は駅近くの仲町にあった。後に移転し跡地が片倉新道と呼ばれる道路となる。明治37年(1904)には岡谷製糸が国鉄大宮工場の西隣に大宮館製糸所を構えた。そして明治40年(1907年)に長野県須坂を本拠とする山丸製糸場が氷川参道沿いで操業を始めた。その一部が今の山丸公園で名前に名残をとどめている。明治44年(1911)には岡谷出身の渡辺綱治が渡辺組大宮製糸所を大宮駅の西南に旗揚げした。大正5年(1916)、片倉製糸が氷川参道一の鳥居を出たところ、今のコクーンシティの場所に大工場を整備し移転した。繭を意味するコクーン(cocoon)の名前に、かつて製糸場だった土地の記憶を込めている。進出企業は地元に根を張りまちづくりに貢献してきた。渡辺組大宮製糸所を創業した渡辺綱治は昭和4年(1929)に与野町長を務める。昭和9年(1934)の日赤病院の開院にあたって、渡辺は工場向かいの敷地と建築費の一部を提供している。片倉大宮製糸所の工場長を務めた今井五六は、昭和15年(1940)に町から昇格した大宮市の初代市長でもある。学校創設を思い立ち、昭和17年(1942)に片倉製糸の出資を募り片倉学園を創設。理事長になった。片倉学園の創設地にある県立大宮高等学校の前身の一つである。次に金融をみてみよう。銀行の立地は当時の業務中心地を示す。大宮に本店を構える大宮商業銀行が創業したのは片倉製糸が進出する3年前、明治31年(1898)である。県内勢では大正元年(1912)に粕壁銀行が支店を出した。大正9年(1920)に浦和が本店の武州銀56 ファイナンス 2021 Jun.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第16回 「さいたま市大宮区」氷川神社の参道を軸としたまちづくり連載路線価でひもとく街の歴史

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