ファイナンス 2021年5月号 No.666
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このように、井上財政後の財政、つまり高橋以降の財政が軍事国家体制につながり、さらにインフレーションへとつながったことを大内は指摘している*12。そして高橋財政の時局匡救事業についても、「高橋財政はいわゆる財布の紐をゆるめて人心を買ったのであり、これにより人心は少しく落ち着いたのである」(第1巻P.132)という評価を下している。さらに公債の日銀引き受けについて、「高橋蔵相時代に始まったことであり、戦時中を通じて日本財政政策特有の方法として軍事費の調達を簡易にした方法であることは、高橋の名において記録されるべきであろう」(第1巻P.138)*13と戦時財政への道を切り開いたとの評価を下している。こうした指摘は、『昭和財政史』が執筆された時点でインフレや戦争の記憶が強かったこと、また戦争への反省という執筆の方針が反映されたものであろう*14。同様に、「高橋蔵相及びその配下の大蔵官僚は、くりかえしていうように、戦争経済また国家独占資本主義への途にあらわれた對立する諸勢力間の調停者の役割を果たした」という評価がなされている(島,1949)。その後の高橋財政への評価について、非常に多様な評価がなされているので、以下では研究史を整理したものを紹介しつつ、適宜重要な論点について言及する。まず『昭和財政史』が執筆されてからおよそ20年後の中村(1982)による整理を紹介する。中村(1982)は、高橋の経済政策を1936年にケインズが完成させた投資乗数の理論を未熟(プリミティブ)な形でだが展開していると指摘し*15、高橋財政への評価に対し「小型ニューディール、福祉国家的コースを志向した財政とみるか、軍事インフレとファシズムをまねいた財政とみるかは、学界においても未解決の問題なのである」としている。さらに、高橋財政への評価*12) 大内の高橋財政への評価は厳しいが、大内の高橋是清個人への評価は高かったことが井手(2006)等で指摘されている。*13) なお実際に制度設計を行ったのは高橋ではない。この点について、大蔵省と日銀が行っていた日銀引き受けの制度設計について分析している研究として井手(2006)がある。このほか若田部(2004)では、日銀引き受けの濫用の本質は軍部による国家権力掌握にあるとする小宮(1996)の指摘が正しいとしている。大内も高橋よりも深井日銀副総裁の創意であるという説に言及しているが、「大して重要ではない」とし、高橋財政が前例となり太平洋戦争での巨額な軍事公債の大部分が日銀引き受けにより発行された点を指摘している(第1巻P.138)。*14) 次のような記述からこの点は明らかであろう。「強いていうならば、この『昭和財政史』は(中略)いささか自己反省的な色彩をもっている。それは何よりも太平洋戦争が、日本国民にとっての意義が決定的だったからである」(第1巻はしがきP.9)。「昭和財政史の結末が太平洋戦争であり、その戦争は惨怛たる敗北であり、それは日本経済及び社会に対する破滅的打撃の物語であるとするならば、それがどういう教訓を後代の日本国民にふくむかを、われわれは示さなくてはならぬと思う。」(第1巻P.4)。*15) 高橋財政がどのような経済思想に従っていたかについては見解が分かれるが、例えば若田部(2003)では「教条的でない国内経済優先の思想、経験から学ぶプラグマティズムが彼の本領であった」と指摘されている。また、松元(2018)では、高橋から学ぶべきこととして、「理論を重視するが、理論を単純に現実に当てはめるのではなく、まず現実をよく見極め、その上で頭を柔軟にして臨機応変に対処しなければならない」という点を強調している。このように、高橋は実践を重視していたことがうかがえる。*16) ここでのリフレとは、「日銀がインフレ目標政策を導入し、デフレを阻止し、穏やかなインフレを目指す、というリフレーション政策(リフレ政策)へと金融政策のレジーム転換を図ることこそが、日本経済がデフレから脱却して、再生するための不可欠の条件になる」という主張である(岩田,2004)。をめぐる論争の解決の糸口を見出すためとして、ニューディール政策との比較を行い「ニューディールは、経済的には(経済回復の点では)失敗したが、政治的には成功した。これに反して、高橋財政は経済的には成功したが、政治的には失敗したと結論することもできよう」と指摘している。このように、大内の指摘とは異なり、高橋財政を評価するような研究が、1980年代にはすでに登場していた。成功したとされる経済面については、高橋財政から平成期への示唆を得ようとする分析がある。代表的なものとして、岩田編(2004)は、リフレの面を強調し*16、平成不況からの脱出のための示唆を昭和恐慌研究が与えてくれるとしている。具体的には、井上財政から高橋財政へのレジーム転換を重視し、高橋財政が成功した要因として金本位制からの離脱と日銀引き受けを柱とする積極的な金融緩和政策への転換が期待インフレ率に影響を及ぼしたことをあげ、平成不況期に行われた小出しの金融緩和政策と構造改革では不十分であると指摘している。さらにその後、岩田(2018)では、ハイパーインフレを引き起こしたのは高橋が暗殺された後の日銀引き受けだった点を指摘しつつ、高橋財政を「マクロ経済政策の成功事例として日本が誇れるものである」とし、「レジーム・チェンジによるデフレ予想からインフレ予想への転換」という考え方が、2013(平成25)年4月以降の「量的・質的緩和」に引き継がれているとしている。こうした研究動向を踏まえた高橋財政への評価の経緯について、2000年代の分析である井手(2006)では、高橋財政の福祉国家への可能性という評価を行った先行研究にも言及しつつ「戦後から1960年代にかけての財政史研究は、支配層と高橋の経済的関係、農村救済に対する消極性、財政の軍事化などを理由に高78 ファイナンス 2021 May.連載日本経済を 考える

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