ファイナンス 2021年5月号 No.666
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要性が高まっていった(第14巻P.166-167)*10。そして、二・二六事件によって岡田内閣が倒れたのちの広田内閣において、1936(昭和11)年10月に日本最初の地方財政調整に関する制度である「臨時町村財政補給金」が誕生したのである(第14巻P.174)。ただし、これはあくまでも1936(昭和11)年度限りの臨時的なものであって恒久財源を欠いており、特に窮迫していた町村のみに交付され、用途は原則租税負担の軽減に充てられ、給付を受けた町村の財政は厳重な監督をうけるといった特徴があり、今日的な地域間財政調整制度とは大きく性質が異なる。しかし、この制度は地方財政調整の必然性に基づいて生まれたものであり、「日本地方財政発展史上注目すべき重大事実である」と指摘されている(第14巻P.178)。このように、傾向として国からの業務が増大していた地方財政は、高橋財政期以降、時局匡救事業を通じた公共事業の拡張とその後の抑制、地域間経済力格差の拡大及び歳出の増加傾向による地域間財政調整制度の導入といった変化が生じていた。そして、二・二六事件後に地方財政もまた戦時財政へと突入していくのである(第14巻P.191以降参照)。4. 昭和恐慌期の財政理論と財政政策への評価これまで昭和恐慌期の財政政策をみてきたが、昭和恐慌期の財政政策の評価に関して、50年ほど昔に執筆された『昭和財政史』の記述と先行研究を整理することで、今日の状況との比較の一助としたい。大内兵衛が執筆した第1巻総説では、井上財政に対して高く評価をしている一方、高橋財政に対しては厳しい評価を下している。まず、井上財政への評価であるが、金輸出により日本経済が深刻な状況に陥っていたことを指摘したうえで(第1巻P.122)、次のように記述している。「思うに井上蔵相の金解禁政策は浜口内閣の外交政策、海軍の軍縮政策、財政緊縮政策などに照応した政策であって、それらと独立のものでなかったから、いったんその実行に着手しておきなが*10) このように高橋財政期頃から地域間財政調整制度が必要とされるようになったが、これが戦後の地方財政制度にいかにつながっているかについては論争がある(例えば大石(1978)等)。*11) この時期の経済論争については若田部(2004)が詳しい。ら、もしそれを放棄すれば(中略)第一次大戦後引きつづいた恐慌、それに対する放漫な融和政策に逆戻りする危険は十分であったから、政府があくまでこれを固執し勇敢に戦ったことは立派な政治的理論であった。しかし内外の情勢がすべてその論理を否定したのもまた事実であった。(中略)金輸出解禁政策の基調は、一般的には健全なものであったといわねばならぬ」(第1巻P.126-127)。このように、井上財政がうまくいかなかった点を指摘しつつも、井上の判断を立派な政治的理論であったと評価している。大内が一般的には健全なものであったと評価していることからもうかがえるように、井上財政は当時の経済理論の主流に従っていたと先行研究で指摘されている*11。例えば、井上財政の理論について「ヒューム、リカードをはじめとする一連の貨幣数量説論者によって信奉された金本位制の自動調節作用による国際収支の均衡化、さらには為替相場の均衡化の理論である」との指摘がある(長,1973)。また、井上財政が失敗に終わった理由は「古典的な経済理論が現実から乖離しようとしているにもかかわらず、教科書通りの経済政策を強行しようとした点にあった」とも指摘されている(中村,1994)。このような指摘の通り、井上は当時の主流であった金本位制による均衡メカニズムを重視するいわゆる古典派的な経済政策を実行していたが、社会が大きく変化している事態に対応できなかったとみることができよう。緊縮的な井上財政から積極財政に変わっていったことに対し、『昭和財政史』は次のように指摘している。「この政策(筆者注:「井上財政」を指す)の退陣がふたたび軍事的国家主義に道をひらいたこと、それが日本経済にとって破滅的な道であったことは、はるかに後日に至って明らかとなった。それまではさしあたり、金の輸出再禁止、為替政策の転換であり、結果はインフレーションであった。この一つ一つはまことに止むをえない、ほかにない道であったことも多かったに相違ないが、しかしその全過程のどれにも、不健全な要求と不穏当な貫徹の方法があった。それが資本主義体制そのものをむしばんだ」(第1巻P.127-128)。 ファイナンス 2021 May.77シリーズ 日本経済を考える 112連載日本経済を 考える

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