ファイナンス 2021年5月号 No.666
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対策などの追加予算が組まれ、1934(昭和9)年度予算は前年度予算よりも約1,300万円の増大であり、公債発行額も8億円を超え、総額21億4,300万円となった(第3巻P.157-158)。1935(昭和10)年度予算の編成においても引き続き緊縮財政の方針が取られ、1934(昭和9)年6月26日に公債を減少させることや時局匡救予算を打ち切るなどの具体案が定められた(第3巻P.159)。予算編成が行われている最中に起きた帝人事件*4により、1934(昭和9)年7月8日に岡田内閣*5が誕生し蔵相が藤井真信に代わったが、新内閣も斎藤内閣の緊縮財政の方向を踏襲したため、大蔵省主計局は財政の常態復帰方針を具体的に検討することになる。そして主計局は、国防費などの削減が困難ななかで5億円以上に上る歳入不足が生じる可能性があり、公債の消化を考えると、財政再建を実現するためには増税不可避との結論を出した。しかし、内閣は増税を行うという結論を出さなかったため、財政再建は歳出抑制によることが目指されることとなった。そのため大蔵省は厳しい態度で歳出抑制に着手したが、軍部からの復活要求などにより歳出削減が容易に進まず、概算総額は21億2,200万円に上った。これは前年度の予算より1,000万円の増加であり、その結果公債は6億8,000万円近くに及んだ。歳出内容の特徴として、軍部の予算が8,400万円拡大した一方、時局匡救予算が終了となったことで内務省と農林省の経費が合わせて6,000万円以上削減されることとなった(第3巻P.162-163)。このように、財政抑制を目指したものの、更なる公債発行と軍事予算の膨張、その一方で地方経済の救済の終了という結果に終わった。1935(昭和10)年度予算編成途中の1934(昭和9)年11月26日に藤井蔵相は病気のために辞任し*6、高橋が再び蔵相となったが、高橋蔵相は災害対策に関する予算*7と1935(昭*4) 帝人株が贈収賄に利用されたという疑惑で、この結果斎藤内閣は総辞職することとなった。しかし、この事件は無根であり、被告は全員無罪となった(第1巻P.132)。*5) 岡田内閣も、斎藤内閣に続き「挙国一致」を掲げていた。しかし最大会派の政友会の協力を得られず、また岡田首相は海軍出身であったにも関わらず、軍縮条約をめぐる対立により海軍からの支持も欠いていた(清水・瀧井・村井,2020)。*6) 租税制度の近代化という点から藤井蔵相について分析を行った井手(2006)は、藤井の役割として、高橋財政期唯一の増税である臨時利得税の創設を上げることができるとしつつ、「藤井の大臣就任にともない、大蔵省の健全財政主義は前面に押し出されることとなったが、非増税から増税へのあまりに唐突な転換は、統治の手法としてはやはり未熟といわざるをえなかった」と指摘している。なお、臨時利得税は1935(昭和10)年に創設されたものの、その規模は3,000万円程度であった。*7) 1934(昭和9)年には各地で旱害・風水害といった災害が発生し、災害予算として1934(昭和9)年度に7,000万円、1935(昭和10)年度に6,500万円、1936(昭和11)年度以降合わせて7,500万円が歳出されることとなった。*8) 日本は既に国際連盟から脱退していたが、主力艦を制限したワシントン条約と補助艦を制限したロンドン海軍軍縮条約は維持されていた。しかし、岡田内閣の下1935年12月にワシントン条約を破棄し、1936年1月にはロンドン海軍縮会議からも脱退し、日本の国際協調体制は名実ともに終わりを告げた(清水・瀧井・村井,2020)。*9) 岡田内閣期には、天皇機関説事件及び国体明徴声明が発表されるなど、軍国主義化の動きが進んでいた。こうしたなか1936年2月20日に行われた総選挙で与党の民政党が勝利し、岡田内閣は議会内における安定基盤の創出に成功した(清水・瀧井・村井,2020)。和10)年度予算をそのまま継承し、議会に臨んだ(第3巻P.164)。予算は原案通り可決し、総額22億1,500万円に及び、公債は7億7,000万円を超えた(第3巻P.166-167)。このように公債発行が1935(昭和10)年度も継続することになったが、ワシントン条約が破棄されたことにより軍部の予算拡大要求が予想され*8、さらに農村の困窮が深まる中で1936(昭和11)年度予算案が編成された。高橋蔵相は、1936(昭和11)年度での増税は時期尚早ととらえていたため(第3巻P.167)、歳出抑制が必要であったが、概算要求額は28億円を超える規模になっていた。それに対し査定を厳しく行った結果、総額22億4,300万円、新規経費は6億4,600万円にとどめられた。新規経費のうちの3分の2近くが軍部関連のものであったにも関わらず、軍部が強く反発したために復活折衝は難航し、最終的に予算総額は22億7,800万円となった(第3巻P.168-169)。このように、高橋蔵相は財政健全化を目指す中で軍部と対立することになった*9。そして二・二六事件が発生し、岡田内閣は倒れ広田内閣が誕生、蔵相は馬場が務めることとなった。1936(昭和11)年度の予算は、緊急なもの以外は、前内閣の方針を引き継いだ(第3巻P.171)。しかし追加予算が認められ、歳出は23億1,100万円となった(第3巻P.172)。翌1937(昭和12)年度予算総額は28億7,200万円となったが、前年度予算を5億円以上も上回るものとなった(第3巻P.182)。このようにして、高橋蔵相が目指した財政の正常化は頓挫し、戦時財政へと突入していくのである。以上について、『昭和財政史』では、井上・高橋両蔵相の政策が軍部の影響を強く受けてきた点を鑑み、「ミリタリズムが井上・高橋の政策をはばみ、彼らの政治を破壊したのである。これによって日本のファッシズムがその姿をあらわしたので ファイナンス 2021 May.75シリーズ 日本経済を考える 112連載日本経済を 考える

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