ファイナンス 2021年5月号 No.666
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過去の「シリーズ日本経済を考える」については、財務総合政策研究所ホームページに掲載しています。https://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/index.html昭和恐慌時の財政を振り返る(後編)シリーズ日本経済を考える112(4月号から続く)世界恐慌のなか、井上財政から高橋財政への転換により金輸出禁止や日銀による国債引き受けを伴う大幅な財政出動を行った結果、日本経済は次第に活力を取り戻しつつあった。3.昭和恐慌後の財政運営(3)財政正常化への転換の取組み高橋財政前半では、大幅な財政出動を行った一方、増税を回避したことで、財政赤字が累積していった。高橋蔵相は財政収支について「各年度ごとに均衡を得るの要はない。一定の年限において得る見込みが立てばよいではないか」(第1巻*1P.141)という考えを有しており、1935(昭和10)年度には一般会計の均衡が回復し、増税ができるだろうと見込んでいたようである。実際に1935(昭和10)年度及び1936(昭和11)年度には新規公債発行額を減らし、臨時利得税を創設するなど財政の正常化への取組が行われていた(図表4)。しかし、「高橋の死をもって公債発行限度論における悲観的消極論の堰は破られ」赤字公債発行額は急増した(第1巻P.141-142)。つまり二・二六事件により、高橋蔵相の公債抑制は達成されなかった。そして高橋蔵相の後を継いだ馬場・結城両蔵相の財政は、赤*1) 本稿では、特に断りのない場合『昭和財政史』(戦前編)を出所とし、括弧内の数字は巻とページを示すものとする。*2) この点は主に軍事費及び国債残高の急増、日銀の公定歩合の引下げを示している。なお価格統制も行われるようになり、インフレが抑え込まれたもののそれが戦後のインフレにつながった一方で、実質個人消費が低下していった点に注目し、高橋の政策を続けていった方が、経済成長が高まり国民生活も豊かになったと考えられると指摘する分析もある(岡田・足立・岩田,2007)。*3) なお、加藤(1989)や古川(2007)等により二・二六事件後の分析が進んでおり、事件後の1936(昭和11)年5月帝国議会で陸軍批判が行われるなど、この後、一気に日中戦争に向かったと単純に考えるべきではないと指摘されている。字公債の発行を財政の基本的方法と認め、強権的方法によって公債の消化不良に対応しようとした*2(第1巻P.155)。この方針は高橋が避けようとしたものであり、高橋蔵相が目指した財政の正常化は実現することなく戦時財政へと突入していった*3。こうした経緯を年度ごとにみると、1933(昭和8)年度予算で10億円に達しようとする公債発行が行われたことを受け、1934(昭和9)年度は経費節約を目指し不急の新規事業を認めない方針をとった。しかし、予算の抑制には軍部から強い反発が起こり、一般会計総額は21億1,400万となった(第3巻P.156)。これは前年度よりも減少しているが、通信事業が特別会計となり一般会計から外れたことに起因するものであり、実際には6,000万円以上増えたことになる。他方で、歳入が増えたことにより公債発行額は7億8,500万円へと1億円程度減少した。最終的には農村財務総合政策研究所資料情報部 研究員市川 樹財務総合政策研究所資料情報部 総括主任調査官兼財政史室長鶴岡 将司図表4:新規公債発行額の推移(単位:100万円)1936193519341933193209008007006005004003002001001931(昭和6)(年度)(出所)『昭和財政史(戦前編)』第1巻P.14074 ファイナンス 2021 May.連載日本経済を 考える

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