ファイナンス 2021年5月号 No.666
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閑話休題。先日親族の90歳近い老人が庭仕事中に枝に額をぶつけて怪我をして、血液凝固阻止剤を服用していたためか出血が止まらず困ったことがあった。土曜日の午後であったので営業中の病院を探し、家族が付き添って某整形外科を訪れて、受付で事情を説明したが、医師が姿を見せることなく「当院では首から上の怪我は診ない」と断られ、保険会社の「安心ダイヤル」のメモを渡されたそうだ。そこに電話しても話し中だったので、今度は市役所に相談したところ、ある総合病院を紹介された。そこの外科に電話して説明したところ、「当院はMRIやCTがなく十分な検査ができない」と断られた。出血以外は全く元気だから応急の止血措置をしてほしいと言っても引き受けてくれないのである。翌朝救急車に来てもらって比較的大きな病院の休日外来に連れて行ってもらって、ようやく診ていただき縫合してもらえたのだが、特段の検査は不要とのことだったそうだ。車中で救急隊員は親切に「遠慮なくすぐに救急車を呼んでください」と言ってくれたそうだが、老人にしてみればこの程度のことで呼ぶわけにはいかないと思ったのだろう。この話を聞いた時、もちろん病院側にもいろいろ事情はあったのだろうが、「義理と人情」の碑を思い出したことであった。演歌「人生劇場」に曰く「時とき世よ時節は変ろとままよ、吉良の仁吉は男じゃないか…」。ベストセラー「人生劇場」を書いた尾崎士郎も吉良の出身であり、自伝的大河小説である同書には、吉良仁吉の血をひく吉き良ら常つねなる人物が登場して、随所で主人公青あお成なり瓢ひょう吉きちの力になる。「人生劇場」では、吉良から上京して早稲田大学に入学する瓢吉の青春を描いた「青春篇」や「愛欲篇」が面白いが、仁義に生きるやくざ飛ひ車しゃ角かくと老侠客吉良常を中心に描いた、やや番外篇的な「残侠篇」も人気がある。何度も映画化されているが、私が好きなのは、飛車角を鶴田浩二、吉良常を辰巳柳太郎が演じた「人生劇場 飛車角と吉良常」(内田吐夢監督)である。因みに荒神山の喧嘩始終を次郎長に最初に伝えたのは、旅回りの講談師松まつ廼の家や太たい琉りゅうである。次郎長の家に寄食することの多かった太琉は、荒神山の喧嘩にも同行して、大政の命を受けて次郎長のもとに報告に急行したのである。話を聞いた次郎長は、仁吉の弔い合戦に、数百人を引き連れて船で伊勢に乗り込んだが、穴太方が謝罪したので手打ちになった。太琉は、次郎長の養子山本五郎(後の禅僧・歌人天田愚庵)が著した次郎長の半生記「東海遊侠伝」を読み、「清水次郎長伝」の講談を考案して語ったが、あまり受けなかった。何としても次郎長伝を世に出したかった太琉は、人気講談師三代目神田伯山に、自分の次郎長伝をそっくり譲ったという。伯山は、それから「東海遊侠伝」を参考に練り上げて「清水次郎長伝」を完成させ、大人気を博した。これを初代玉川勝太郎や二代目広沢虎造がふしをつけ、独自の工夫を凝らして浪曲化した。虎造の「清水次郎長伝」はラジオで放送され、大衆の支持を得た。戦後、次郎長伝をはじめとする虎造の浪曲のラジオ番組は聴取率第1位となるほどの人気で、これにより仁吉も含めて清水次郎長一家は庶民のヒーローとなった。春秋の筆法をもってすれば、博打好きの太琉が次郎長の家でごろごろしていたから、吉良仁吉も有名になったということになろうか。ところで吉良の有名人と言えばもう一人、吉き良ら上こうづけの野介すけ義よし央ひさを挙げねばなるまい。忠臣蔵では意地が悪く欲深な老人として描かれ、天下の憎まれ役とされている吉良公だが、地元では治水事業に尽力した名君と称えられている。領内に黄金堤という堰堤を築いたとき、赤毛の愛馬にまたがり巡視にあたったとされ、吉良にはその銅像がいくつもある。馬上の義央は穏やかにして威厳がある。吉良公の赤馬に因んだ郷土玩具や最中は、吉良の名物になっている。吉良上野介の墓所は、吉良の片へん岡こう山ざん華け蔵ぞう寺じにある。かつて華蔵寺を訪れた俳人村上鬼城は「行春や憎まれながら三百年」の句を残した。同寺には、生前の吉良義央がつくらせたという義央の木像もある。温厚で思慮深い顔立ちである。また、地元の方々が建てた「真実を求めて」と題する立派な石碑もある。碑文中に曰く「…名君を暗殺したものを忠臣としたのでは、武士道にも反し芝居にならないので、小説家、劇作家たちが、興味本位にいろいろのつくりごとをして、吉良公を極悪人に仕立て上げ、忠臣蔵として世間に広めた。…」。世の中に一度悪評が定着すると、それを覆すのは極めて難しい。「ため息は命を削る鉋かな」というが、昨今の一部マスコミの興味本位の一面的な記事やSNS上の無責任な誹謗、そしてそうした諸々のもの70 ファイナンス 2021 May.連載私の週末 料理日記

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