ファイナンス 2021年5月号 No.666
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私の週末料理日記その454月△日土曜日新々昼寝から起きてお茶を飲む。そろそろ新茶の季節である。昔から新茶と言えば八十八夜。八十八夜というのは、24節季の一つである立春を起算日として88日目ということであり、今年でいうと5月1日である。24節季は太陰暦と異なり、太陽の運行を基準にしているので、実際の季節とのずれが小さい。「彼岸」、「八十八夜」、「土用」、「二百十日」などは、我が国において24節季をベースに生活・農事のために設定された暦日である。昭和世代のおじさんとしては、お茶の産地と言えば「清水港の名物は お茶の香りと 男伊達」と歌にもある通り、静岡県が圧倒的な大産地だろうと思っていたのだが、最近は鹿児島県もほぼ同じぐらいの産出量らしい。これは煎茶についてであり、抹茶については、何といっても宇治を擁する京都府が1位で、続いて愛知県、鹿児島県といったところだ。愛知県では西尾の抹茶が有名で、抹茶スイーツなどにもよく使われている。先程の歌にある「清水港の名物」としてお茶と並ぶ「男伊達」とは、言うまでもなく清しみずの水次じ郎ろ長ちょう一家のことであるが、一方愛知県西尾市は、吉き良ら町と合併しており、荒こう神じん山やまの喧嘩で有名な侠客吉きらの良仁に吉きちは三さん州しゅう吉良横須賀の生まれである。過日吉良を訪問した折に、仁吉の墓がある源徳寺のご住職から話を聞いたことがある。お話によれば、浪人崩れの寺男の息子であった仁吉は、180センチを超える大男で腕っぷしが強く草相撲で鳴らしており、巡業で回ってきた相撲興行に飛び入りで参戦した。当時興行上の暗黙の了解として、飛び入りの素人は下位の力士にはともかく大関には勝を譲らなくてはならないとされていた。ところが仁吉は、勝ち抜いて大関と対戦したのはいいが、若気の至りで大関を投げ飛ばしてしまい、興行主のやくざから命を狙われる羽目となった。そこを近隣の侠客寺てら津づの間ま之の助すけに匿われたことから、間之助から盃をもらってやくざになった。それが縁で間之助の兄貴分である清水次郎長の下で18歳から三年間修業をして、その後吉良に帰り、吉良一家を構えた。仁吉は義理に厚く、堅気には腰が低く、若くして人望を集めていたが、兄弟分である伊勢の博徒神かんべの戸長なが吉きちの縄張りを同じく伊勢の穴あの太う徳次郎が奪うという事件が起きる。長吉から助けを求められた仁吉は、たまたま吉良に滞在していた次郎長一家の幹部清しみずの水大おお政まさ、関東綱五郎、樋おけやの屋鬼おに吉きち、法ほう印いん大五郎、増川仙右衛門等とともに穴太徳との喧嘩に助っ人として赴くことになる。ご住職によれば、仁吉は多勢に無勢の不利を承知で、それでも侠客としての義侠心から引き受けたのだという。そして神戸一家と助っ人の吉良一家、清水一家あわせて22名と、穴太一家と助っ人の黒駒勝蔵一家、平井亀吉一家130余名が、現在の三重県鈴鹿市にある荒こう神じん山やま観音寺の裏山で激突した。これが世に言う荒神山の喧嘩である。荒神山観音寺は、かつて春かすがのつぼね日局の信仰が篤く、その威光で公然と博打開帳が許されており、その収益は莫大であったという。荒神山の喧嘩は博徒同士の利権争いであった。神戸方は人数的には劣勢であったが、仁吉や大政以下清水一家の活躍で勝利した。しかし、仁吉は鉄砲で撃たれて死ぬ。28歳の最期であった。穴太方は、「神戸方の頭株の仁吉と大政はいずれも大男であるから、大男を狙え」と雇った助っ人の猟師に指示していたのだという。源徳寺には、次郎長が建立したという仁吉の墓のほか、「義理と人情 吉良町」と刻まれた大きな石碑がある。自治体が任侠道に因んだ碑を建てるというのも珍しいと思うが、なかなか立派な碑である。 ファイナンス 2021 May.69連載私の週末 料理日記

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