ファイナンス 2021年5月号 No.666
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貨店」が核店舗だ。昭和45年(1970)に出資を受け入れ同49年(1974)に信州ジャスコに転換した。名実ともに駅前が一等地になったのは昭和47年(1972)に始まった区画整理がきっかけである。元々旧電車通りの南側は倉庫や工場が散在するエリアだったが、松本駅の新築と合わせ、マス目が広い碁盤目状の区画に整理された。昭和53年(1978)にイトーヨーカドーが進出。翌年、六九通から井上百貨店が移ってきた。他の商業施設やホテルが建ち、駅ビルも開業したことで、駅前は床面積10,000m2クラスのビルが集積する一大拠点となった。まずは中心街の人の流れが変化した。以前は本町、伊勢町、六九通の順で人通りが多く六九通も1日10,000人前後の人出があった。影響は如実に表れ、その5年後には駅前の人通りが最も多くなり、六九通は5,000人前後に半減した。車社会化と郊外型モールの席巻同じ頃に車社会化の兆しも見えてきた。昭和56年(1981)、はやしや百貨店あらため信州ジャスコが片倉製糸場の跡地に移転。店舗面積は13,375m2で、郊外型モールのはしりだった。コの字型の中心商店街は駅前と郊外の挟み撃ちにあった格好だ。そうした中、昭和59年(1984)、約3年のブランクを経て跡地に松本パルコが開店した。信州ジャスコの移転でいったん落ち込んだ客足が戻ってきた。DCブランドの流行も手伝って伊勢町界隈は若者とファッションの街になっていった。思えば今に至る街の変化の萌芽だった。1990年後半には郊外型モールの出店が本格化。平成12年(2000年)、井上百貨店は同じ松本盆地の山形村にシネコン併設の郊外型モール「アイシティ21」を旗揚げし、店舗面積23,500m2と大型化も果たした。車社会を背景とした郊外型モールの席巻は松本の中心市街地に少なからぬ影響を与えた。出店ラッシュが一巡した平成12年(2000)、通行量が最も多い松本パルコ前でさえ1日9,000人前後に留まった。近年の大きな動きとしては、平成29年(2017)にオープンしたイオンモール松本がある。片倉製糸場の跡地のジャスコ(当時はイオン東松本店)ができて30年以上経ち、建て替えることになった。店舗面積は49,000m2と長野県下で最も大きい。本町・伊勢町界隈と駅前の大型店の店舗面積を合わせてなお上回るショッピングモールの進出に地元は色めき立った。ハイセンスに活路を見出す中心街現在、20年前に比べ街中の人通りに数字上の大きな変化は見られない。とはいえ全国の中小都市に見られるシャッター街の雰囲気もない。松本パルコ以来のハイセンスな街のコンセプトが定着し、かつての繁華街とは異なる新たな魅力を得ているように見受けられる。イオンモール松本の開店から3年が経過したが、思いのほか良い影響もあるようだ。まずはイオンモールの吸引力で松本商圏の規模が拡大した。次に、イオンモールを中心市街地に取り込み、既存の中心商店街との間で機能分担を進めた。図1で示した市街地の範囲は旧城下町より広いが、それでも図の中心から縁まで徒歩10分。本町通りを北上し女鳥羽川を渡る千せん歳さい橋を起点として、イオンモール松本と駅前エリアはほぼ同じ距離である。駅前と同様、イオンモールも中心市街地の一部といって差し支えあるまい。令和元年の松本市商業ビジョンでもイオンモールを取り込んで中心市街地の範囲を広げた。昨秋、イオンモール松本と松本パルコが共同で販促キャンペーンを始めた。両店含む4つのスポットを巡るスタンプラリーなどを通じて街全体の魅力を高める取り組みだ。中町、本町、伊勢町の親町3町の商店街も参画している。ポスターのキャッチコピーが秀逸で、パルコがイオンモールに「家電も買えて映画も観れる、正直ずるい」と言えばイオンモールがパルコに「お洒図3 六九通と井上百貨店(出所)井上百貨店提供60 ファイナンス 2021 May.連載路線価でひもとく街の歴史

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