ファイナンス 2021年5月号 No.666
63/96

とするが82番目にできた銀行ではない。上田市が本店の第十九銀行、旧松代町が本店の六十三銀行の国立銀行を由来とする2つの前身行の数字を足して八十二となった。松本には第十四国立銀行があったが破たんした。八十二銀行松本支店の源流を辿ると、まず六十三銀行の松本支店は元々明治29年(1896)に松本で創業した信濃商業銀行の本店だった。本町に直交する伊勢町にあった。明治42年(1909)に買収されて六十三銀行の支店になる。次に第十九銀行は大正5年(1916)に松本支店を本町に構えた。昭和6年(1931)、両行が統合して八十二銀行が発足。店舗は伊勢町の六十三銀行松本支店を引き継いだ。その後、昭和40年(1965)に現在地に移転した。ちなみに松本に本店を構えた銀行は他にもあった。信濃商業銀行と同じ明治29年(1896)創業の松本貯金銀行で、大正11年(1922)信州銀行に改称。昭和18年(1943)に八十二銀行に買収され、同行の本町支店となった。こちらは現在の松本駅前支店の系譜に連なる。本町に日本銀行が支店を出したのは大正3年(1914)。新潟支店と同時で全国10番目だった。背景には中·南信地方で盛んだった製糸業があった。わが国の輸出戦略の要で、原料繭の仕入が初夏に偏り現金払いが求められる製糸業は資金需要が旺盛だった。当地の製糸金融で慢性的な資金不足だった地元銀行を日本銀行が支援した。昭和33年(1958)に現在地に新築移転。跡地は松本郵便局になった。メガバンクの前身で戦前から松本に拠点を構えているのは現みずほ銀行の安田銀行と日本勧業銀行だ。安田銀行の進出は明治40年(1907)。明治26年(1893)に開店した信濃銀行松本支店を源流とする。日本勧業銀行松本支店は昭和5年(1930)。明治32年(1899)に発足した長野農工銀行を引き継いだ。昭和12年(1937)に店舗を新築。鉄筋コンクリート造3階建で、正面に並ぶアーチ型の開口部が壮観だ。平成15年(2003)で銀行としての役目は終え、平成19年(2007)に国の有形文化財に登録された。長らく郊外だった駅前の変貌本町界隈が発展する一方で街は旧城下町の外に拡大していった。当時の「郊外開発」でも後々影響が大きかったのは鉄道駅である。松本駅は明治35年(1902)に開業。図1の市街図を見るとわかるように、駅周辺は元々城下町の外だった。駅以外でも、明治以降の比較的大きな施設は城下町の外にできた。駅の反対、城下町の東側には片倉製糸場が進出した。大正8年(1919)、製糸場とは目と鼻の先に旧制松本高校のキャンパスが開かれた。戦後は信州大学文理学部に継承され、キャンパス移転後は「あがたの森公園」になった。うっそうとした並木道の脇に佇む洋風建築は旧制高校時代の校舎である。開校に合わせて整備された駅前の大通りは「あがたの森通り」の愛称で呼ばれるが、昭和39年(1964)まで路面電車が通っていたので「旧電車通」ともいう。ところで松本市の昭和32年(1957)の路線価図を見ると、地価のうえでは既に駅前が最も高かった。その後、昭和44年(1969)の報道で最高路線価は「新伊勢町186‐4スヰート菓子店」だった。新伊勢町通は旧城下町の伊勢町と松本駅を結ぶ通りで、スヰート菓子店は通りの駅側の端にあった。最高路線価はかつて郊外だった駅前に移ったが、商業中心地はまだ本町界隈に残っていた。駅前と伊勢町通の路線価が同額で、高価格帯が本町から女鳥羽川を渡り向かい側の六ろっく九通に伸びていた。商業中心地は伊勢町、本町そして六九通の“コ”の字型をしていた。六九は藩の厩で54頭の馬を飼育していたことが名前の由来だ。6×9=54から厩を六九厩といった。六九通には明治18年(1885)創業の呉服店を由来とする井上百貨店があった。昭和11年(1936)に3階建の百貨店に改装。戦後の増築を繰り返しつつ一番店の座を守り続けた。昭和42年(1967)、松本初の全蓋式アーケードが架けられたのも六九通である。対して伊勢町は昭和31年(1956)に開業した「はやしや百図2 旧日本勧業銀行松本支店(出所)令和元年4月8日に筆者撮影 ファイナンス 2021 May.59路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

元のページ  ../index.html#63

このブックを見る