ファイナンス 2021年4月号 No.665
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各地の話題5運天港の歴史村の東側に位置する運天港の歴史は古く、12世紀ごろに源為朝が伊豆大島から逃げてくる最中に暴風雨に遭い、「運を天に任せて」たどり着いたのがこの港で、それが運天の名前の由来とも言われています。三山時代には明国との貿易の港として使われ、進貢船規模の大型船も入港していました。その後1609年の薩摩藩が琉球侵攻の際攻め入ったのも運天港からとされていて、その際には70~80隻の船団が運天港及び隣の古宇利島、羽地内海付近を埋め尽くしたと言われています。さらに日本が鎖国時代の1816年にはイギリス海軍のバジル・ホールが、1846年にはフランスの艦船三隻が来航した話もあるほか、アメリカ合衆国艦隊のマシュー・ペリーも運天港に来航したとされるなど、琉球及び日本の歴史にも影響を与えた港となっています。また、運天港には今帰仁の番所(役場)も置かれていて行政の中心となった場所でした。その後1916年(大正5年)に番所は運天港から現在も役場のある仲宗根地区に移り行政の中心もまた変わりました。運天港全景。手前は羽地内海、奥は古宇利島。1975年(昭和50年)沖縄の本土復帰に際し、運天港は開港及び沖縄県から重要港湾として指定されていて、同年に開催された沖縄国際海洋博覧会当時は、博覧会の建設資材の輸入や来客輸送などに活用されました。現在は、近隣離島の伊是名島、伊平屋島へ毎日各2便の定期航路便が就航しているほか、荒天時の避難港として使用されています。6沖縄地区税関運天出張所運天港における税関官署は1955年(昭和30年)に琉球税関運天監視署が発足されたのが始まりです。同年開港にも指定され、当時外国扱いだった奄美群島と家畜の貿易も盛んだったことから、監視取締業務だけではなく通関業務も処理していました。その後、北部に大規模なパイン加工産業が出来、その製品の輸出原料糖の減免税、加工工場の管理を行うため、1959年(昭和34年)に名護市に名護出張所が設置され、運天監視署は吸収され消滅してしまいます。(その後1964年名護出張所は名護支署へ昇格)1972年(昭和47年)本土復帰に伴い沖縄地区税関が発足。琉球税関名護支署は沖縄地区税関コザ税関支署名護出張所として新たに発足します。(その後1974年コザ税関支署は沖縄税関支署に名称変更)そして1975年(昭和50年)、名護出張所が廃止されるに伴い、運天港に沖縄地区税関としては初の運天出張所が設置されました。これは同年沖縄国際海洋博覧会が開催されることに伴い、運天港の出入港船舶の増加及び観光戻税確認業務が急増することを予想し対処したものでした。海洋博終了後には入出港船舶、輸出入実績も減少し、1979年(昭和54年)に運天港は不開港となり、運天出張所も非常駐官署となります。そして1989年(平成元年)に運天出張所は廃止されました。運天出張所の看板をかける初代所長(S.50) ファイナンス 2021 Apr.85連載各地の話題

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