ファイナンス 2021年4月号 No.665
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(1902)に建てた初代の三井本館が関東大震災で被災したため、鉄骨鉄筋コンクリート造地上7階・地下2階の2代目本館を再建した。三井銀行はじめ財閥中枢の本社を集約したオフィスビルである。コリント式の列柱が印象的なギリシャ・ローマ風の意匠で昭和4年(1929)に竣工。平成10年(1998)に国の重要文化財に指定された。最高路線価の銀座、分散する中心地金融、物流、郵便など多岐にわたる経済インフラの発祥の地となった日本橋界隈だが、交通手段が鉄道や高速道路に移るにつれ舟運と街道の優位性は低下していった。さらに業容拡大に伴い城下町由来の区画が手狭になったのか、拠点を日本橋から移すケースが散見された。大正12年(1923)、安田銀行が本店を創業地の小舟町から大手町に移した。第一銀行は昭和5年(1930)に新たな本店を丸の内に構え、元の本店を兜町支店にした。昭和10年(1935)、関東大震災による被災をきっかけに魚市場が築地に移転した。三井銀行は戦後も三井本館に本店を構えていたが、昭和35年(1960)に有楽町に新たに本店を建てて移転した。路線価が確認できる範囲で最も古い昭和30年、東京で一番地価が高いのは「中央区銀座5丁目鳩居堂前銀座中央通り」、銀座4丁目交差点の南側である。日本橋税務署の管内に限っても、日本橋界隈で最も高い三越前の路線価を東京駅前が上回る。もっとも中心地が郊外に移転するケースが多い地方に対し、東京は都心内の移転に留まり郊外化の兆しは見られない。ひとつは、新しいスタイルの街をつくる白地のキャンバスが都心の別の場所に確保できたことだ。武士の街だった江戸城下町は幕府の瓦解で広い区画の武家屋敷が空いた。日本橋なら銀行発祥の地となった丹波田辺藩の上屋敷。丸の内や大手町のビジネス街や霞が関の官庁街もこの例のうちだ。現代も似たケースがみられる。工場跡地にできる新しい街はこの延長といえよう。もうひとつは人口が多く鉄道網が発達しており、マイカーが地方ほどには普及していないことだ。鉄道と徒歩がまちづくりの標準である。外に拡大する余地もないので旧市街に上書きするように新しい街ができてゆく。水辺の街の再生平成11年(1999)東京証券取引所から立会場がなくなった。株券の電子化やインターネット取引の拡大などもあって、兜町に事務所を構える証券会社が減少した。商業より先に、ネット化が街の風景を変えたケースだ。とはいえ日本橋は今なお首都を代表する中心地のひとつである。伝統的な街にありがちな弱み、区画が狭く業容拡大に伴ってオフィスを拡張できないという課題も昨今はだいぶ解消された。再開発が進み、特に室町近辺に広い区画の高層ビル、複合商業施設が増えた。伝統的な街の強みは言うまでもない。元々、日本橋には歴史に根差したブランド、江戸時代から続く老舗の「なりわい」、歴史的建造物など有形無形の資産がある。書き出しで触れた渋沢栄一ブームも日本橋を大いに盛り上げる。かつて市街に縦横に張り巡らされた水路は一般道や高速道路に置き変わった。経済インフラとして道路網が重要であることはこれからも変わらない。そのうえで、その街に住み、働く人が街に愛着を持てるまちづくりと折り合いをつけていく。折しも日本銀行の手前から東京証券取引所の辺りまでの高速道路の地下化事業が始まった。20年後、舟運で栄えた日本橋の水辺の風景がよみがえる。プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。専門は地域経済・金融図5 高架撤去後の日本橋イメージ(出所)首都高速道路提供。日本橋区間地下化事業webサイト掲載時点の再開発計画の情報を基に同社作成 ファイナンス 2021 Apr.73路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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