ファイナンス 2021年4月号 No.665
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五差路になっていた。交通の要衝であったことは、明治4年(1871)、楓川の西側に駅逓司と郵便役所が置かれた事実からうかがえる。今は日本橋郵便局の入口に「郵便発祥の地」のパネルがある。銀行発祥の地は楓川の東側にある。後に証券取引所も誕生するこの一帯は丹波田辺藩の上屋敷があった場所で、維新後は幕末の豪商の三井、小野および島田家が所有していた。震災後の区画整理まではこの区画を指して兜町といった。明治6年(1873)、その一角で第一国立銀行が誕生した。8割が三井と小野の出資で、頭取は両家から出され、渋沢翁は総監役だった。前年に完成した「三井組ハウス」を買収して本店とした。楓川に架かる海運橋を渡ったところに現れた和洋折衷の擬洋風建築は観光名所となり、当時の錦絵にも描かれた(図2)。頭に天守閣を乗せたなんともジャパネスクな洋館は、清水建設創業者の清水喜助の養子、二代清水喜助の手によるわが国初の銀行建築である。錦絵に描かれた楓川は昭和40年(1965)に埋め立てられ今は首都高速環状線の高架が走る。石造りの海運橋は撤去され欄干の親柱が元々あった場所に残っている。店舗は建替えを繰り返し今は4代目の建物だ。跡地に建つみずほ銀行兜町支店の壁面に「銀行発祥の地」のレリーフが嵌め込まれている。第一国立銀行は第一銀行、第一勧業銀行を経てみずほ銀行となった。第一国立銀行は全国の地方銀行の祖ともいえる。そもそも国立銀行とはいえ政府が設置した銀行という意味ではなく、米国のナショナル・バンク制度を直訳した「国立銀行条例」に基づく銀行のことだ。資産を裏打ちに独自の紙幣を発券できるのが特長である。条例改正で兌換義務がなくなったのを機に急増し153番目まで設立された。そのうち第四(第四北越銀行、本店新潟市)、十六(同・岐阜市)、十八(十八親和銀行、長崎市)、七十七(仙台市)、百五(津市)、百十四(高松市)が現存する。これまでの連載に登場した北陸銀行の第十二、鹿児島銀行の第百四十七など国立銀行を源流とする地方銀行も多い。国立銀行の中には、大蔵省時代に自ら銀行条例の起草に関わったこともあって渋沢翁が支援して立ち上げたケースも多かった。兜町に証券取引所ができたのは明治11年(1878)。第一国立銀行の隣に東京証券取引所の前身、東京株式取引所が開業した。銀行と証券は企業の資金調達の両輪となる。投資家からみれば売却できる場があっての出資だ。渋沢翁は証券取引所の旗揚げにも関わった。三井、安田の発祥と銀行街の形成第一国立銀行とは別に、自前の銀行経営を目指した三井家は本拠の駿河町、今の三井本館の日銀よりの場所に三井銀行の前身となる「為替バンク三井組」を設立した。明治7年(1874)で、国立銀行以外の銀行では初めてのケースとなる。第一国立銀行と同じく二代清水喜助の設計・施工で、頂上に鯱が乗る擬洋風建築が耳目を集めた。ちなみに第一国立銀行は三井家の撤退を受け頭取が渋沢翁に交代。明治8年(1875)から大正5年(1916)まで約40年にわたる在任となった。戦前の安田財閥の中核だった安田銀行も日本橋が発祥の地だ。明治13年(1880)に創業。今のみずほ銀行小舟町支店の場所に同行の本店があった(図3)。植え込みに平成6年(1994)の銘で「富士銀行創業の地」の碑がある。安田銀行は戦後富士銀行に改称し、平成14年(2002)に第一銀行の系譜を継ぐ第一勧業銀行と合流しみずほ銀行になった。日本銀行は明治29年(1896)に現在地に移ってきた。開業は明治15年(1882)で当時は日本橋箱崎町図2 東京名所之内海運橋第一国立銀行(広重画)(出所)日本銀行貨幣博物館所蔵図3 安田銀行初代本店(出所)国立国会図書館デジタルコレクション ファイナンス 2021 Apr.71路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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