ファイナンス 2021年4月号 No.665
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年2月22日に実行予算編成の方針を打ち出していた*23。ただしその時点では、4~5月分の満州事件費の計上などが決定された以外には、まだ十分な予算の計画が立てられてはいなかった(第3巻P.141)。そして犬養内閣の政策が実現する前に五・一五事件により犬養内閣は倒れ、挙国一致内閣の斎藤実内閣に予算編成は引き継がれた。社会の安定のためにも、財政政策の転換が重要であったことがうかがえる*24。五・一五事件を契機として誕生した斎藤内閣は、政党、軍部、官僚のバランスの上に坐った挙国一致内閣で、引き続き大蔵大臣を務めた高橋に寛容穏健な協調政策を求めた。人心の不安は農村の窮乏に由来するというのが高橋の見解であったので*25、彼は農村問題の解決を「時局匡救」と称し、農産物の価格維持対策と農村の土木事業等に大予算をあてることにした(第1巻P.132)。編成された予算総額は17億8,040万円であり、公債金、関税により歳入確保したうえで、満州に約1億5,000万円、失業救済事業に約5,000万円を支出するものであった。起債総額は約5億2,900万円に及び、公債の消化のために日銀引き受けを行うことになり*26、それまで兌換銀行保証発行限度1億2,000万円であったものが10億円まで拡張された(第3巻P.142)。「時局匡救」の具体化として、国・地方経費に低利資金融資額を加えて4億6,000万円程度を半年で歳出する方針が出されたが、復活要求をうけ総額8億円、これに負債整理など融資を加えると計16億円もの資金散布が行われることになった(第3巻P.145-147)。その結果として1932(昭和7)年度予算は19億4,300万円を超え、前年度から約4億6,000万円(約31%)増大することとなった。これに加え、犬養内閣が歳出を保留していた満州事件費の2~3月分などが追加された結果、総額は約20億1,200万円となった。また、公債6億8,400万円が起債されることにな*23) この直前の2月9日に井上は暗殺され、金解禁政策はまったく終わりをつげた(中村,1994)。井上を暗殺した小沼正について、長(1973)では、小沼が1933(昭和8)年に記した上申書の一部を引用したうえで「彼の経験や思想は昭和恐慌の過程で没落してゆく中間層を象徴する一般的特徴をそなえているといってよい」と述べている。*24) 斎藤内閣は、1924(大正13)年以来の非政党内閣であった。それまで首相が死去するなどによって交代したときは、同一政党内から首相が選ばれていた。しかし五・一五事件という混乱や満州事変・昭和恐慌といった危機への対処のため、海軍軍人で朝鮮総督を務めた斎藤実が首相に選ばれた。なお、斎藤は組閣の際に二大政党に協力を求め、自らの内閣の使命を非常時の暫定内閣と理解していたとも指摘されている(清水・瀧井・村井,2020)。*25) 恐慌対策として農村の救済を目指す政策が財政出動以外にも行われていた。代表的な政策としては農山漁村経済更生運動がある。これは、産業組合(農業協同組合の戦前版)の経済的組織化と農民の自力更生によって恐慌脱出を目指すもので、小作争議など意見対立のある村を指定村から除外しつつ、産業組合の事業に経済力を集中させるものであった。この事業では、女性や青年にも参加・自発性が求められたことに加え、村内の対立や意見の相違を否定するもので、違った意見をいいにくい雰囲気が醸成されたという指摘がある(大門,2009)*26) 日銀引き受けについては『日本銀行百年史』第4巻、岩田編(2004)や井手(2006)が詳しい。なお『昭和財政史』(戦前編)には「国債」「通貨・物価」「金融(上)(下)」「国際金融・貿易」などもあり、多面的な分析が行われている。また、金本位からの離脱及び日銀引き受けの決定というマクロ経済政策の転換が予測インフレ率を引き上げたとする分析もある(飯田・岡田,2004)。このように、高橋財政の金融政策は不況からの脱出において大きな役割を果たしていたことが指摘されている。り、歳入の三分の一超に及んだ。この「時局匡救」は土木事業中心であり、失業者救済は農村を中心に大規模に展開された。ただし、事業費の大部分は地方債の発行によって行われ、地方債がその後長期にわたり地方財政の大きな負担となった(第14巻P.128)。このように1932(昭和7)年度予算は大きく拡充させられたため、議会は5回も開催された。さらに時局匡救事業は3年度間にも及ぶ大計画であったこともあり、1933(昭和8)年度予算は編成する余裕がなく(第3巻P.148)、例年よりも概算要求は遅れて提出されることとなったが、新規要求額が13億5,400万円にも上り、総額は29億円を超える膨大なものとなった。大蔵省の査定原案は21億500万円まで抑え込まれたが、各省、特に軍部からの復活要求が強く、最終的には総額22億3,900万円、公債は8億9,600万円にも上った(第3巻P.148-150)。そしてこの後、財政赤字が累積していく中で、高橋財政は財政拡張から緊縮財政すなわち財政健全化にむけた政策転換をおこなった。しかし、高橋が目指した財政健全化は実現することなく、日本財政は総力戦体制・戦時財政へと向かっていく。後半では、こうした経緯を紹介した後に、昭和恐慌期の財政政策に関連する研究の紹介を行う。(5月号に続く) ファイナンス 2021 Apr.69シリーズ 日本経済を考える 111連載日本経済を 考える

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