ファイナンス 2021年4月号 No.665
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1929(昭和4)年には、年度途中であったにも関わらず地方予算も整理・節約され、1928(昭和3)年よりも歳出が削減された(第14巻P.117-119)。また、昭和に入り、農村経済の悪化や失業などの「社会問題」が生じていたため、浜口内閣では1929(昭和4)年7月の段階で社会政策審議会を設置していたものの、緊縮政策のために予算化が困難な状況にあった。こうした中で世界恐慌が発生し、失業が急速に増大したため、1931(昭和6)年度予算に失業救済事業費を計上したものの、農村への対策は乏しかった(第3巻P.75)*16。同年度の地方財政も、基本的には緊縮の方針が取られ、新税と増税は認められず、整理・節約によって生じた余裕金を減税に充ててもよいとされた。また教員、官吏の給与引き下げが実行された。その結果、地方歳出は1928(昭和3)年に18億9,400万円であったものが毎年下がり続け、1931(昭和6)年には16億2,600万円まで縮小した。さらに市と比較して町村の歳出の減少幅が小さいという特徴がみられたが、これは規模が小さい自治体においても自由に歳出を削減できない国政委任事務が多いために生じたものであり、そのことが不況下において担税力の低下した住民に対し重い負担を負わせる結果になった(第14巻P.119-120)。こうした状況が地方経済に及ぼした影響は非常に大きく、自営業における赤字農家比率は1929(昭和4)年42%、1930(昭和5)年59%、1931(昭和6)年55%、小作農家のうち赤字農家比率は1929(昭和4)年52%、1930(昭和5)年74%、1931(昭和6)年52%と推移しており、「農家経済、農民生活は行きつまったというのほかはない」状況であった(第1巻P.120)。このように経済状況が急激に悪化していく中で、金解禁派と再禁止派で論争が続いたが、井上蔵相は金輸*16) 大石(1978)においても「井上財政は緊縮財政・国債整理を一枚看板としていたため、農村救済は預金部を通ずる救済融資」にとどまったと指摘がなされており、このほかに応急資金の貸付が1927(昭和2)年から行われていたが、貸し付け条件が厳しかったために成果が上がらなかった点も指摘している。*17) 井上が金解禁政策を固持した理由については、第4節で考察する。*18) イギリスが金本位制から離脱したのを受け、イギリスの植民地、属国さらに北欧諸国も金本位から離脱していた。こうした状況において、日本でも金輸出の再禁止論が強くなった。当時の若槻首相も金本位からの離脱を考えていたが、井上の反対によって思いとどまった可能性があるという指摘もある(中村,1994)。*19) 1930(昭和5)年11月4日に浜口は東京駅で狙撃され、若槻に首相を譲ることになったが、その背景として金解禁により日本経済が深刻な不景気に陥り、それに対する不満が高まっていたことが指摘されている(中村,1982)。*20) 公定歩合引き下げは満州事変や上海事変がほぼ一段落したタイミングであったこと、当初その効果は差し当たり比較的小さかったことなどが指摘されている(『日本銀行百年史』第4巻)。*21) 鎮目(2009)は「財政政策だけでなく、為替レート政策、金融政策を含むマクロ経済政策の総体として理解する必要がある」とする一方で、「日本銀行による長期国債の引き受けを伴う財政拡大が行われたことが、財政規律を失わせる結果につながったとの見方ができる」と指摘している。*22) 満州問題は1931年9月18日の柳条湖事件以来政府が不拡大方針をとっていたにもかかわらず、事態は悪化を続けた。この際マスコミを通じて満州事変は「生命線」である満蒙を守るための自衛であることが繰り返し叫ばれ、その後の戦争拡大に大きく道を開くことになった(大門,2009)。なお大門(2009)は、人々の生存の視点から当時の歴史をとらえなおしている。出再禁止を受け入れようとはしなかった*17。1931(昭和6)年9月にイギリスが金本位制を停止したが、それでもなお井上蔵相は金本位制を堅持した*18。その間、浜口首相の狙撃事件があり*19、若槻内閣が誕生するが、政局が大きく混乱し、1931(昭和6)年12月13日に立憲政友会・犬養内閣の成立により高橋是清蔵相が就任、直ちに金輸出を再禁止(金本位制からの離脱)した。これによって「一挙に円の価値を半額以下に引き下げた」(第1巻P.131)こととなり、この浜口・若槻内閣から犬養内閣への交代が経済政策の大きな転換点となった。犬養内閣が金の輸出を再禁止したのは、「金解禁の影響が大きくて日本の経済がそれにたえなかった上に、満州事変が起こって、その問題は浜口・若槻内閣がこれまでにもっていた財政経済ならびに外交の枠内では片づけえないほど大きかったからである」(第1巻P.122)と指摘されている。また、日銀は1932(昭和7)年3月、6月、8月と3度にわたり公定歩合を引き下げた*20。このような為替安と金融緩和に加え、次にみる日本銀行による国債引き受けと財政支出の拡大等もあわせて、国内経済の安定を中心に据えたといえる政策運営*21がなされた。こうした中、1932(昭和7)年3月1日に満州国の成立が宣言され*22、それに対する国際的な批判が高まり、「満蒙問題の解決」のためには「国家の改造」が必要であるという右翼の煽動が公然と行われるようになった(第1巻P.129)。犬養内閣にとって、こうした満州の問題と並ぶ重要政策が金輸出の再禁止で、上述のとおり金輸出の再禁止を決定するが、1932(昭和7)年度予算編成を行う時間がなかったため、若槻内閣が編成した予算案を議会へ提出した(第3巻P.137)。しかし同予算は、金輸出再禁止前の予算であり、実態に即していなかったため、1932(昭和7)68 ファイナンス 2021 Apr.連載日本経済を 考える

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