ファイナンス 2021年4月号 No.665
70/94

閣、途中政友会・田中内閣が出現し一時中断するものの、その後の浜口内閣と第2次若槻内閣に至るまで、当時の政権は緊縮政策を表看板としていた。張作霖爆破事件後の田中内閣退陣を受け、1929(昭和4)年7月に成立した民政党・浜口内閣は、英米を中心とする世界的平和の一員となるためにも、第1次世界大戦以降の懸案であった金の輸出解禁(金解禁*8)は必要であると考えていた(第1巻P.100)。浜口内閣でも蔵相となった井上準之助は、内閣成立と同時に金輸出解禁(金解禁)政策を掲げ*9、その実現のために緊縮財政を行っていった。具体的には、1930(昭和5)年度予算編成にあたり、前年7月5日には新規事業を認めないなど徹底的な歳出削減を行う方針を決定した(第3巻P.24)。また、1930(昭和5)年4月のロンドン海軍軍縮条約を受け、軍事費を削減し、国民負担軽減を目指した(第3巻P.49-50)。その結果として、1929(昭和4)年以降、公債の発行を抑えることに成功している*10。こうした中、1929(昭和4)年10月、ニューヨーク・ウォール街で株価暴落が起き、アメリカの繁栄に大きな衝撃を与えることになった。その影響の波が世界各地に伝播したことで世界恐慌が発生し、1931年にはイギリスが金本位制を停止したことで、アメリカには何百という銀行の休業という形で跳ね返ることとなった(第1巻P.101)。日本では1930(昭和5)年1月、井上蔵相が金解禁を実行したが、当時、世界経済は復興しつつあると認識されており、このような世界の大変動は財界にも金融界にも予想外の事態(第1巻P.100-101)で、井上蔵相の金解禁路線に対して最大の挑戦となった。すなわち、世界的平和の一員となるという目的において軍縮路線と表裏一体をなす経済政策として必要で有効と考えた金解禁の実行により、それまで閉じられていた世界への扉を開いたが、その扉の先はまさしく荒れ狂う暴風雨の中だったのである(第1巻P.114)。*8) 固定相場で金と一国の通貨の価値を連動させる為替制度の一種である金本位制は第1次世界大戦中停止されていたが、これに復帰する(金の輸出禁止を解く)ことを一般に「金解禁」と呼称している。*9) アメリカが1919(大正8)年に金本位制へ復帰した当時、国内政策当事者は日本の復帰(金解禁)に消極的であった一方、1925(大正13)年にイギリスが復帰した前後には日本の復帰を求める声が大きくなっていった様子は『日本銀行百年史』第3巻を参照。*10) こうした浜口内閣の政策は、井上財政及び幣原外交を柱とし、当時国民からの信頼を得ていた。金解禁が実施された翌月の1930(昭和5)年2月20日の総選挙で、浜口率いる与党民政党が圧勝しており、3月には震災復興を祝って東京市で帝都復興祭が開催され昭和天皇が復興状況を視察されるなど、当時は明るい話題が続いていた(清水・瀧井・村井,2020)。*11) 貨幣制度の基礎である本位貨幣のことで、金本位制においては金貨等を指す。*12) 1930(昭和5)年上半期の内地輸出入合計は前年同期比26%減、通年で30.9%減だった(第13巻P.75)。*13) この背景としては、「国際間の自由な資本移動」「為替レートの安定」「国内物価の安定」という三つの目標を同時に達成できないとする命題から、固定相場制である金本位制をとる限り一時的に国内物価の安定は犠牲にせざるをえなく、さらに当時の金本位制で、国際収支赤字による金の不足国は自国通貨価値を維持できなくなる中では、為替レートの安定を選択するかわりに国内物価の下落=デフレーションを選択せざるを得ない(若田部,2003)との見方がある。金解禁によりまず表れた影響は正貨*11の流出であった。その後、ニューヨーク株式市場の下落やロンドン軍縮会議を受けた政局の不安定などが重なり、金解禁から半年(1930年夏頃)で資本の海外逃避や通貨供給の収縮が起き、国内では金輸出再禁止論が台頭することになる。また、金融面でのこうした影響は物価の下落をもたらしたが、諸外国との比較では下落率は限られたものであったため輸出入量は減退し、貿易は悪化*12の一途で、国際収支も急速に悪化した。また、重要商品であった生糸や綿糸の価格を下落させたほか、農産物も影響を受けたため、農村への影響は残酷なまでに大きかった。金解禁の影響は、対外的かつ金融的な面から表面化したが、貿易の不振や物価の下落*13を通じて国内の諸産業も不振となった(第1巻P.115-119)。世界恐慌を背景とした日本国内の大不況である昭和恐慌の発生である。3.昭和恐慌後の財政運営(1)昭和恐慌時の財政の状況財政運営の分析に先立って、この時期の一般会計の決算についてみておこう。一般会計歳出の決算と公債の対国民所得比の推移をみると、1931(昭和6)年度頃までは緊縮財政を続けており、公債発行は特に1930(昭和5)年度に削減されていることがわかる(図表1)。この1930~1931(昭和5~6)年度が、上述の井上蔵相の下で行われた緊縮財政である。そして1932(昭和7)年を境に財政規模が大きく変化している。1932(昭和7)年から歳出及び公債費が急増し、1936(昭和11)年度頃にかけてやや財政規模が抑制されていることがわかる。この期間が積極的な財政出動を行った「高橋財政」と呼ばれる時期である。高橋財政の期間の特徴として、1932~1934(昭和7~9)年にかけて歳出総額が増大している点と、軍事費が継66 ファイナンス 2021 Apr.連載日本経済を 考える

元のページ  ../index.html#70

このブックを見る