ファイナンス 2021年4月号 No.665
69/94

してはかつて経験したことのない恐慌の大きさだったが、これはどのように起きたのだろうか。震災手形(約4.3億円)はその多くが銀行に分有され、そのうち約2.7億円が未決済(1924(大正13)年3月末時点)のまま残り、それは実質上ほぼ空手形であったが、政府保証(1億円)をはるかに超える額であり、これをどう処置するかという問題(震災手形問題)が長く残ることになった。護憲三派で組織された加藤内閣は全て政府が賠償するしかないという見解、そのあとを受けた憲政会・若槻内閣は、「それ(筆者注:「日本銀行が割り引いた手形によって受ける損害」を指す)に相当する公債を日本銀行に交付し、日本銀行は、震災手形所有銀行がその手形の債務者との間に手形を更改して10カ年以内の年賦償還貸付契約とした場合には、それに対してその公債を貸し付ける」(第1巻P.52)という「震災手形善後処理法」という法案を準備した。大正の世が終わった翌年の1927(昭和2)年3月、この法案を審議していた議会で、片岡蔵相が案の必要性を示す中、東京渡辺銀行が閉店した旨を語ったことを契機として、銀行取付けなどが発生することとなった。これを昭和金融恐慌の第一段階とするならば、第二段階は台湾銀行救済スキームを巡る攻防である。混乱の中で同法案は成立し、銀行取付けは一旦下火と*7) 台湾銀行は政府の特殊銀行で台湾における通貨発行銀行、鈴木商店は当時日本最大のいわゆる商社である。なったが、この過程で日本経済の持つ金融面での不健全さ、すなわち救済される震災手形の最大所有者が台湾銀行であり、その最大の債務者は鈴木商店であることが明らかとなった*7。さらに台湾銀行を救済しなければ鈴木商店が倒産し、日本全国に倒産の連鎖が広がるとの懸念があることも明らかとなった。そこで政府は、日銀に無担保の貸出を行わせ、2億円を限度に日銀の損失を補償する案を用意した。しかし、同年4月17日に枢密院がこれを否決したことで若槻内閣は同月20日総辞職し、田中内閣が誕生した。その結果、第三段階として、台湾銀行が休業となり全国各地の銀行に取付けが発生した。コール取引が途絶え、十五銀行が支払いを停止し、多くの銀行が休業となる事態となった(第1巻P.51-56)。このように、昭和は経済的な混乱とともに始まった。一方で、男子普通選挙が実現したように大正末期から昭和初期にかけては政治的に大きな変化があった時期でもあった。(3)昭和初期の緊縮政策と金解禁昭和初期の金融を中心とする経済の混乱が顕在化する前、既に「この(筆者注:「緊縮財政」を指す)必要は大正末期においてすでに明白」(第1巻P.74)とあるように、加藤内閣から始まり、次の第1次若槻内感染症拡大について比較する観点から、1918(大正7)年8月下旬から流行が始まったスペインインフルエンザ(スペイン風邪)について簡単に整理する。内務省衛生局は同年8月~翌年7月を第1回流行と記し、当時の総人口5,719万人に対し総患者数は2,116万8千人と報告している(約37%が罹患)。このうち総死亡者数は25万7千人(単純計算した致死率は1.2%)に上った。その後、第2回流行(1919年9月~1920年7月)では総患者数241万2千人、総死亡者数12万8千人(致死率5.3%)、第3回流行(1920年8月~1921年7月)では総患者数22万4千人、総死亡者数3,698人(致死率1.6%)と記録されている(川名,2008(注))。致死率等のデータをみる限り、被害の程度はかなり大きい様子がみて取れるが、鎮目(2020)は「インフルエンザの大流行が経済政策上の課題として議論されたことはなく、あくまで社会政策上の問題として扱われた」としたうえで、財政の対応に関連しては「感染症関係財政支出をみると、1917(大正6)年度の103万円から1919年度の321万円、1920年度の313万円へと3倍以上に拡大した。しかしながら支出の大半は感染予防と治療のための直接的な費用に限られ、一般会計歳出に占める比率は、0.1%台から0.2%台に上昇したに過ぎなかった」と指摘している。(注) 内閣官房HP「過去のパンデミックレビューについて」参照。https://www.cas.go.jp/jp/influenza/kako_index.html<コラム> スペインインフルエンザの流行と財政 ファイナンス 2021 Apr.65シリーズ 日本経済を考える 111連載日本経済を 考える

元のページ  ../index.html#69

このブックを見る