ファイナンス 2021年3月号 No.664
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昭和20年代後半にかけて中心街は国際通りに延びていった。国際通りは昭和8年(1933)に開通。首里と東町中心街を結ぶ郊外のバイパス道路だった。開通当時は牧志街道または新県道と呼ばれていた。周囲は畑が散在する湿地帯だった。きっかけは昭和28年(1953)前後の拡幅工事だ。昭和29年(1954)、リウボウが国際通りのBの場所に移転。昭和30年(1955)には山形屋が図中3に移転した。最高路線価地点に挙げられた沖縄三越だが、昭和32年(1957)に大越百貨店として開業したのが始まりだ。昭和45年(1970)に沖縄三越となった。昭和48年(1973)の最高路線価は三越前の26万円だが、国際通り東端近くの県庁前から西側は壺屋小学校の手前まで20万円。平和通りは19万円だった。つまり価格帯の頂点こそ三越前だったが国際通りの大部分と平和通りにも高価格帯が及んでいた。国際通りから平和通りに入ると牧志公設市場のエリアになる。昭和25年(1950)にできた市営市場で、マクブなど近海の魚介類、骨付き豚肉や豚足などご当地ならではの食材が昔の市場スタイルで並んでいる。地元住民の台所にとどまらず今では観光名所になっている点、第6回で紹介した金沢の近江町市場に通じる。郊外にできた新しいスタイルの街平成14年(2002)、最高路線価地点が県庁前、「久茂地3丁目国際通り」に移転した。戦前からあった県庁を筆頭に戦後にわたって中心機能が集まってきた。県庁の坂を下りると左側に那覇市役所がある。戦後転々とし昭和40年(1965)に今の場所に落ち着いた。その先に昭和31年(1956)創業の沖縄銀行の本店、久茂地川を渡った区画に琉球銀行本店がある。琉球銀行は昭和23年(1948)の設立。東町にあった日本勧業銀行、第百四十七銀行の建物を修繕して本店としていたが、昭和41年(1966)に現在地に移転した。そして琉球銀行の斜め向かいに地元紙の沖縄タイムスがある。昭和59年(1984)には再開発が始まり、平成3年(1991)に完成した再開発ビル「パレットくもじ」に百貨店のリウボウが入居した。中心地が動いたもうひとつの要因が、車社会化を背景とした郊外商業の発展である。相対的に三越前の力が弱まった。昭和60年頃から国道58号線沿いに商業施設が増えてきた。平成に入っても大型モールの開業が続いた。在日米軍基地の返還に伴って郊外に広大な再開発地ができたという当地ならではの背景もあった。国際通りの商店街は駐車場不足、また売場面積の相場観の拡大に悩まされた。そうした中、沖縄初の百貨店の山形屋が平成11年(1999)に閉店。呉服店の時代から数えて77年の幕を閉じた。平成11年9月9日付南日本新聞の記事によれば、郊外店に対抗し増床しようにも周辺の用地買収の見通しが立たなかったようだ。郊外には倍以上の売場面積を持つ大型モールが複数あった。同じころ、中心市街地のすぐ外側にできた新しい街の全貌が見えてきた。昭和62年(1987)に返還された在日米軍の牧港住宅地区の跡地を那覇の新たな新都心として開発した「おもろまち」だ。名称は平成11年(1999)に公募で付けられた。、計画人口約21,000人、事業費約1110億円のプロジェクトで面積は214ha。平成28年の中心市街地活性化基本計画で定められた那覇市の中心市街地167.4haよりひとまわり大きい。おもろまちには2000年頃から大型店の開業が相次いだ。平成12年(2000)に商業施設面積13,500m2の天久りうぼう楽市、三越前が最高路線価の座を明け渡した平成14年(2002)には36,800m2のサンエー那覇メインプレイスが開店した。図3 おもろまち(出所)Google Earth76 ファイナンス 2021 Mar.連載路線価でひもとく街の歴史

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