ファイナンス 2021年3月号 No.664
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こそないが、平成4年(1992)に開園した公園「福州園」の中国式庭園が往時の雰囲気を醸している。長虹堤ができて干潟化が進み、さらに干潟が埋め立てられて島は陸続きとなった。そして東、西、若狭、久茂地川の対岸の泉崎からなる那覇四よ町まちができた。港町那覇の中心だった東町近世に至り、那覇は薩摩藩の琉球貿易の拠点でもあった。鹿児島の回で書いたが、琉球王国は中国に福州館、鹿児島に琉球館を置き、薩摩藩と中国の貿易を中継していた。主力商品のひとつ、昆布は幕末期の戦略物資だ。北海道の昆布が那覇を経由して中国に輸出され、中国から和漢薬の原料を輸入した。原料は富山の薬売りに卸された。当時日中貿易は長崎に独占されていたことを考えれば、琉球を通じた中国製品の輸入は、今でいう並行輸入のようなものだ。「抜け荷」といった。富山で昆布料理のレパートリーが多く、大阪のうどんが昆布だしで、北方の特産物である昆布が沖縄料理の定番食材であるのも、それぞれが昆布の流通経路上にあったからだ。近代、琉球王国から沖縄県になっても貿易港の位置づけに変わりなく、これまでの連載に登場した石巻や鹿児島と同じように港の後背地が栄えた。今の東町交差点の辺りがその中心だ。沖縄県で初めての百貨店もここにあった。昭和5年(1930)、鹿児島に本店を構える山形屋が図中1の場所に百貨店を新築した。前身の呉服店は大正11年(1922)、西町に出店していた。当時の大通りを港に向かうとすぐ近くに日本勧業銀行、次いで第百四十七銀行の沖縄支店があった。第百四十七銀行は今の鹿児島銀行で明治16年(1883)に進出。県庁御用為替方となった。銀行の向かい側には大正9年に現在地に移転するまで沖縄県庁があった。江戸期に薩摩藩在番奉行所があった場所だった。戦前のバイパス道「国際通り」の発展沖縄県の路線価の初出は昭和48年(1973)。当時の最高路線価は「牧志町1丁目沖縄三越百貨店前国際通り」だった。国際通りは県庁北口交差点から安里三叉路まで約1.6キロの大通りである。当時から今に至るまで那覇のメインストリートだ。名前は昭和23年(1948)、今のてんぶす那覇の場所にできた映画館のアーニーパイル国際劇場にちなむ。さて、沖縄の戦後復興は地形図でいえば那覇が島だったころの入り江にあたる、ガーブ川沿岸から始まった。終戦直後、地元住民は占領軍から半径1マイル(1.6km)以内の立ち入りを禁止されていた。最初に帰還が認められたのが壺屋町、次いで牧志町の集落だった。壺屋町は17世紀来の歴史を持つ壺屋焼の窯場がある。牧志町は瓦工房が集積していた。ほどなくして壺屋町の丘のふもとに市が立ち始めた。ここが戦後最初の中心街となった。今の神かん里ざと原ばる通りである。昭和25年(1950)、山形屋百貨店が図中2の場所で再開した。昭和27年(1952)には地元資本の百貨店のリウボウが図中Aの場所で営業を始めた。当時は丸金デパートの2階にあった。琉球貿易商事が前身で「舶来品のリウボウ」と呼ばれていた。昭和28年(1953)、リウボウと同じ並びに農連市場が開場した。図2 街の中心は東町から神里原、国際通りへ123AB沖縄琉球平り勧業跡147跡山形屋跡リウボウ跡山形屋跡(平14まで)最高路線価(現在)最高路線価壺屋交差点東町神里通原県庁跡通農連市場跡沖縄タイムス→琉球跡旧ダイエー和久米村跡(出所)国土地理院地図に大和総研が加筆 ファイナンス 2021 Mar.75路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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