ファイナンス 2021年3月号 No.664
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本連載を始めて早や1年、第1回目は宮城県石巻市だった。今月は石巻と同じく港町が出自の沖縄県那覇市である。那覇の地形図を海が下になるよう90度回転するとどことなく石巻に似ている。海に面した河口には丘を背にした港がある。丘の上には神社があって、入港するときの目印になった。那覇には波なみのうえぐう上宮、石巻には日和山に鹿島御児神社がある。川には中州がある。那覇の奥武山公園は国場川の中州だった。石巻の北上川の中州も今は公園になっている。川には明治になってから橋が架けられ交通の拠点となった。那覇の明治橋は明治16年(1883)、石巻に内海橋ができたのはその前年だ。両方とも橋の周辺の街が開けた。那覇の島の居留地元々、那覇は琉球王国の外港だった。首里城を擁する城下町・首里と貿易で栄えた港町・那覇はそれぞれ別の街で互いに5km弱ほどの距離がある。ちょうど松山城下と三津浜のような距離感だ。明国と貿易を始めたころは陸から離れた島で、海を横切る築堤道路で本土と結ばれていた。臨済宗の古刹の崇元寺の門前から延びる築堤道路は長ちょうこうてい虹堤といい1451年に架けられた。地形を見ると島だった時代を想像できる。3.5mで区切った標高図(図1)によれば、かつて島だった辺りがこんもり高くなっている様子がうかがえる。「島」の突端には波上宮がある。波上宮を南に下がった場所に明国の渡来人の居留地があり久米村といった。久米村は「くにんだ」と読み、横浜や長崎の中華街にあるような門が南北にあった。明の洪武帝に派遣された渡来人は久米三十六姓または「くにんだんちゅ」(久米村人)と呼ばれ、後々久米士族の一門を形成。外交や貿易を担う上級専門職として政府を支えた。長い時間を経て周囲に溶け込み中華街図1 那覇市街の標高図波上宮牧志市場若狭首里城卍崇元寺泊おもろまち農連市場牧町志壺町屋安里川奥武山公園西町東町泉崎いえ米久村西武門跡大門跡(出所)国土地理院地図を基図に大和総研が作成74 ファイナンス 2021 Mar.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第13回 「沖縄県那覇市」白地に新しい街をつくってきた歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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