ファイナンス 2021年3月号 No.664
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「低級なる読者の関心を買うために、知らず識らず議会を排撃し、言論の自由を自ら失うことに努力していた。」「節操も、独立性も殆んどない状態だ。」「今や社会各機関の伝統と勢力が崩れ落ちて、最も感化力のあるのが言論機関だ。それは良くも悪くも現代社会において最大なる勢力だ」と述べてマスコミを批判していた*11。6ディベート不在の教育我が国のジャーナリズムが、「庶民感覚」からの権力批判ばかりになりがちな*12背景には、明治以来、我が国でディベート教育が行われなくなったことがあるというのが筆者の考えである。筆者のふるさと鹿児島では、旧薩摩藩時代に郷ご中じゅう教育というものがあり、そこでは「詮議」というディベート教育が行われていた。「詮議」では、年長者が無理難題を出して年少者に答えさせる。例えば、「殿様が急用だが、早籠でも間に合わない、どうするか」といったことに即答させるのである。難題だから、答えは決まっているわけではない。それに対する年少者の答えを、何人かの年長者がああでもないこうでもないと「詮議」するのである。筆者は、平成6年、主税局で与党税調の担当をしていたころ、官民の勉強会で陽明学者、安岡正篤のご子息の安岡正泰氏が主宰していた東洋思想の研究会で論語を学ばせていただいた。そこで、実は、儒教の開祖である孔子はディベート教育を行っていたのだと考えるに至った*13。弟子との問答の中での孔子の答えは状況によって実に様々なのだ。例えば、ある時、孔子が弟子たちを集めて「お前たちを認めて用いる人があったら、どのように応えるか」という質問をした。ある弟子は、他国に使いして辱められないようにしたいと言い、ある弟子は、国を治めて民を豊かにしたいと言った。そのような中、曾皙という弟子は郊外に散策*11) 「石橋湛山-リベラリストの神髄」増田弘、中公新書、1995,p123*12) 権力に対する批判の図式は、議会が一丸となって専制的な行政府に対抗していた時代のもので、近代政党が登場した後の議院内閣制にはあてはまらないものとされいる(バジョット)が、我が国では、今日も、その図式にとらわれているとの指摘がある(「比較議会政治論」大山礼子、岩波書店、2012)。欧米のマスコミは、常に疑いをもち真実を探求し不正を許さないという意味で反権威ではあっても反権力ではないとされる。*13) 人事院研修(日本アスペン)でご指導いただいた哲学者の今道友信先生は、日本では、論語で「子曰」を「しのたまわく」と読ませるが、直訳すれば「先生が言った」だ。聖書の「Jesus said」も「キリストが言った」だ。敬語を使うことによって、本来、対話だったことが分からなくなっている。哲学の初めは、ソクラテスの対話なのだと話されていた。*14) 先進編11-26*15) 陽貨編17-22*16) 寺島実郎氏が、財務総合政策研究所の講演(「9.11後のパラダイム転換と日本」)で、一番競争力がないのは農業でもなんでもなく、日本の社会科学系のアカデミズムだ」と話されていたが、それもディベートのない教育のせいではなかろうか。*17) 前掲、「日本の『敵』」。我が国で、世論の感情化に警鐘を鳴らしていた随筆家としては山本夏彦氏を挙げることができよう。*18) 畑村洋太郎東京大学名誉教授。同教授は、「新しいことに挑戦すればいやでも矢敗するのであるから、失敗に対する考え方自体を変えなければならない(中略)。このような考え方が理解され社会に広まることで、我が国が新しい創造的な社会に転換してゆく(学士会報No.841)」としている。なお、本稿第5回でみたとおり、失敗に寛大なのが英国の政治である。し、高台で涼んで歌でも詠じながら帰ってきたいと述べた。孔子は、その曾皙をよしとした*14。また、孔子は、ブラブラしているよりは、博打でも打っているほうがいいといったことも述べている*15。そのような問答集である論語の解釈として、江戸時代には様々な学派が成立していた。清国や李氏朝鮮のように朱子学一辺倒にはならなかったのである。ところが、そんな論語が明治になると正しい教えを述べている教材としてだけ扱われるようになった。今日の大学で教授が学生とのディベートを望んでも、学生との間でディベートが成り立たないという話を聞くが、それは明治以来のそのような教育のせいではないかと思っている*16。7危機時に世論が感情化することへの歯止め石橋湛山が、「低級なる読者の関心を買うために、知らず識らず議会を排撃し、言論の自由を自ら失うことに努力していた」と述べた時、それは、我が国において、危機時に「空気」の支配が起こりやすいことを指摘したものだった。中西輝政氏は、危機時において「空気」の支配が起こりやすいことは、何も我が国に限ったことではないが、歴史的に長く民主主義をとってきた国では、世論が常に感情に傾きやすい弱点を持っていることに着目して、危機時に世論が感情化することに対する安全装置を必ずシステムの中に組み込んでいるとしている。例えば英国ではマスコミや学者の間に、危機時における「世論に抗する発言」を非常に高く評価する気風があるという*17。危機時に我が国で「空気」の支配が起こりやすい背景にも、失敗についてディベートが行われないことがあるというのが筆者の考えである。最近、「失敗学」*18なるものが唱えられているが、失敗したらどうしようとい ファイナンス 2021 Mar.53危機対応と財政(番外編-2)SPOT

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