ファイナンス 2021年3月号 No.664
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かがった読売新聞の渡辺恒雄氏で、同氏は昨年のNHKの報道番組(「戦後日本の自画像」)で、番記者制度に批判があるが政治の本当の姿を報道するためには不可欠な制度だとしていた。我が国のマスコミは難しい入社試験をパスしてきたエリートの集団である。記者は、取材を通して政・官・財・労の代表的なエリートと人的ネット・ワークを形成している。そのようなマスコミ・エリートを、政治家も連絡役や知恵袋として活用してきた*5。それに対して、最近では、それが国民の政治に対する不信感をもたらし、無党派層を増やしているといった批判が行われるようになっている。渡辺氏のNHK番組での証言に対して、政治学者の御厨貴氏は、それは政治が開かれていなかった時代のことだとコメントしていた。しかしながら、番記者制度がなくなったとしても、我が国のマスコミの取材スタイルが抜本的に変わるかと言えば疑問だ。我が国の合意形成の仕組みが、論理的な説得はほどほどにして、説得されない者には論理を超えたところでその者の顔を立てて全員一致の意思決定を目指す(本稿第6回参照)というものである限り、政策形成の実態を伝えるためには、記者は論理を超えたところでの利害調整がいかになされるかを取材しなければならない。インフォーマルなサークルの中に入っていなければならない。そのことは、そこで知ったかなりの情報を記事にできないことを意味するのである。なお、記者が知っている多くの情報を記事にせず、記事にする場合には食い込んでいる政治家に有利な記事を書く癖は、外国に駐在している場合「他国の同業者に比べ、ホスト国政府の言いなりになることで有名」ということにつながっているとの指摘がある。リチャード・クー氏*6によると、その結果「相手国政府にとって都合の悪い話は報道されなくなって(中略)日本のマスコミに対する評価はきわめて低いだけでなく、実際現地で命がけで仕事をしている日本企業の会*5) 政治家の知恵袋としては、佐藤政権における産経新聞出身の楠田秘書官や中央公論の粕谷一希氏などが知られている。*6) 「よい財政赤字、悪い財政赤字」リチャード・クー、PHP研究所、2000*7) 同様の指摘として、我が国の政治家の発言を、すぐに我が国に不利な一方的な「国際公約」にしてしまうという話がある(「やぶにらみ金融行政」ペイオフは国際公約?中井省、財経詳報社、2002)。*8) 「日本の『敵』」中西輝政、文春文庫、2003*9) 我が国では「政府の審議会や懇談会からテレビ・ワイドショーにいたるまで、アマチェアを自負する入たちが身の回りの生活体験をもちだすと、専門的議論をしていた識者さえ理由なく迎合するような雰囲気がいつのまにやら出来上がってしまった。(中略)「主婦感覚」といった私的空間の限られた経験をストレートに政治や社会の公的空間に結びつける奇妙さは、家庭の団欒をそのまま電車やホテルなどの社会的空間にもちこんで他者の迷惑をかえりみない現代日本独特の風土と結びついている(「政治家とリーダーシップ」山内昌之、岩波現代文庫、2008)」との指摘がある。*10) 筆者が主計局の調査課長時代、お世話になった俵孝太郎氏は、「マスコミの決まり文句は、何かといえば、行政の責任が問われている、ということだ。要するに、政治・財政につけを回せと、国民をけしかけているのである。(中略)新聞も、テレビに平仄を合わせて、国民の甘えと依存の構造を正当化し、助長する(「日本最良の選択」俵孝太郎、青春出版社、2002)」と指摘していた。社員たちは日本以外のマスコミから情報を集めなければならなくなっている」というのである*7。5日本特有のワイド・ショー政治記事にされない情報があることは、国民に不透明感を与え、我が国で欧米流のリーダーシップが成立しにくい背景になっている。政策論争が建前を並べただけの解説記事になりがちなことから、世論が注目するのは、政策の目指すところよりもその政策が弱者にどのようなひずみをもたらすかといったスキャンダル的なところになりがちになる。その結果が、日本特有の庶民感覚でのワイド・ショー政治と言えよう。ワイド・ショー政治について、中西輝政教授*8は、「日本の場合、(中略)民衆が『庶民感覚』*9からストレートに支配エリートや本流のリーダーたちを批判することが民主主義だと思い込んできた節がある。ここに、日本では建設的な議会政治が成り立ちにくい構造がある。議会というのは、エリートともう一つのエリートの集団のそれぞれの側のリーダーがお互いにリーダーとして意見を闘わせるところである。代議制というのは、まさにここに意味があるわけだが、野党政治家、特に日本の左派やリベラル陣営さらには大マスコミには、いわゆる『市民感覚』から、あるいはストレートに『庶民の立場』に立って考える、ということだけが民主主義における政治家の使命だと思っている人たちがあまりに多い。」「『民意の政治』というものが本来的に民主主義なのではない。なぜなら『民意はしばしば間違うことがあるからだ。このことをしっかりと念頭に置くことが民主主義の出発点である』」としている*10。ちなみに、この傾向は最近のことというわけではない。筆者は財政史研究を高橋財政から始めたが、2.26事件で高橋是清が暗殺された10日ほど後、東洋経済の主筆だった石橋湛山は「彼らは何等か事が起こると、必ず痛烈に要路のものを攻撃し、嘲笑し、罵倒する。」52 ファイナンス 2021 Mar.SPOT

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