ファイナンス 2021年3月号 No.664
55/102

だ*3。地元の人の頼みごとを政治の上でどんどん反映してくれるような政治家が「出したい人」というのでは国はどうなってしまうのかというわけである。しかしながら、政治に志す人のほとんどは、社会なり国家なりについてのビジョンを持っている。井戸塀政治家という言葉が聞かれなくなっても、政治で財を成したという話を聞くようになったわけではない。選挙地盤が固まって、次の選挙を心配する必要がなくなると、多くの政治家は国家・国民のためにということを正面に打ち出すようになる。そして、地元からもそういったことで評価されるようになっていく。今日でも、与野党を通じて「選良」と呼ぶにふさわしい政治家は多いように思う。3マスコミと政治筆者がそう思うようになったのは、農林予算を担当して、戦後初めての米価引き下げに関与した時の経験からである。当時の農林行政は、戦後の補助金漬け農政から脱却して産業としての農政の展望を開いていこうとしていた時期であった。そのような中、補助金漬け農政の象徴といわれていたのが米価だった。生産性が上がらない中で上げ続けた結果、米価は国際価格に比べて10倍以上にもなっていた。そこで、農水省は規模拡大による生産性向上に政策の重点を移していこうとしていたのである。しかしながら、それは戦後の高度成長の中で、都会に息子娘たちを送り出して地方で零細な農地と先祖伝来の墓を守っている多くの農家への「補助」の削減を意味していた。そこで、地方出身の多くの議員は与野党を問わず、従来同様の米価引き上げを求めていた。それらの議員は、ベトコンとかアパッチと呼ばれていた。それに対して、ベテラン議員となって農政の将来を考える人たちは正規軍と呼ばれて、農水省と一緒になって米価の下げを目指していた。筆者が最初に関わった昭和61年の米価は、双方ががっぷり四つに組んで結局据え置きとなった。最後に決まったのは深夜0時過ぎ。筆者は、主計官のお供で官邸の官房長官室に詰めていた。深夜になれば、自民党本部に集まっているベトコンやアパッチの先生方もだん*3) 「保守化と政治的意味空間」佐々木毅、岩波書店、1986。*4) 当時は、役人で亡くなるものも多かった。筆者が大蔵省に入省した時、学生時代に所属したボート部の先輩のおじさんが竹内道雄事務次官だったことから官舎に伺ったことがある。その時、「まあ厳しいところだよ。同期で2人くらいは亡くなるな」と言われた。筆者の同期では、2名が現役中に、1名が退官して間もなく亡くなっている。だんいなくなり、最後に農林部会長一任で米価引き下げが決まるはずだった。ところが、先生方がいなくならない。その情報を聞いて、後藤田官房長官が「これは、芝居ではないな」とつぶやいた。しばらくして、農林部会を代表して、羽田孜代議士と加藤紘一代議士が来られた。そして、来年は下げると確約するので、今年は据え置きにしていただきたいとの申し入れが行われた。下がると思われていた米価は据え置きになった。翌年、羽田先生には、米価をめぐる資料の説明に訪れた際に、こんな資料の作り方じゃダメだといった指導までしていただいた。そのようにして、戦後初めての米価引き下げが実現した。その後、紆余曲折はあるが、農政は産業としての農業への道を少しずつ歩み続けている。もちろん、その道は険しいものだ。ベトコンから正規軍となって農政の将来を展望しておられた松岡利勝代議士や松下忠洋代議士には、ずいぶんとお世話になったが、いずれも自ら命を絶たれた。その報を聞いての当時の思いは、選挙に当選し続けながら国家・国民のために働くことは難しいというものであった*4。農林担当の記者にはベテランが多く、政治家がどのような動きをしているか、農水省がどのように考えているかを突っ込んで取材しており、それを材料に当方にも取材攻勢をかけてきた。ある時、まだ米価決定までに相当の間があった時期に、当方が話したわけでもない数字を、主計局の農林係はこれだけの大幅引下げの方針だと記事にすると言ってきた。当方としては、「今の時期の観測記事として書かれるのはご自由ですね」と答えるしかなく、そのまま記事になったが、それはこちらの腹を取材してきたのであった。考えてみれば、それは、その記者が米価決定の参加者の一人になっていたということだった。日本のマスコミは、政治の参加者の一人といえるのである。4番記者と日本の政治日本のマスコミに特徴的なものとして番記者の仕組みがある。それは、記者が個別の政治家に張り付くことによって政治の裏側までをも取材する仕組みである。番記者として有名なのは、筆者も何回か説明にう ファイナンス 2021 Mar.51危機対応と財政(番外編-2)SPOT

元のページ  ../index.html#55

このブックを見る