ファイナンス 2021年3月号 No.664
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最近言われなくなった言葉に、井戸塀政治家という言葉がある。「選良」という言葉も死語になってしまっている。政治という重要な分野において、人間の崇高な精神を認めなくなったからであろうか。自らと違う考えの相手との利害調整を図る政治の大切さがわからなくなったのだろうか*1。政治に知恵を出し利害調整を助ける官僚の役割に対する評価も地に落ちている。しかしながら、それではしっかりとしたリーダーシップは確立できまい。1政治家は、かつて「選良」と呼ばれていた前回ご紹介した岡崎久彦氏の祖父、岡崎邦輔の『憲政回顧録』の記述から、かつて政治家が「選良」と呼ばれていた実態がうかがわれる。それによると、「このとき(第1回と第2回の帝国議会選挙)は、まだ選挙に対して、不正手段を用いて、これを腐敗堕落させるなどということを知らなかった(中略)。全国各地とも、地方第一流の人物を挙げ、藩閥官僚に代わって、直ちに国政を託するに足る人材を目標に、各候補者を選定したものである。(中略)われから進んで候補者として名乗りを上げる人間などは、品性劣等、士人のともに遇すべからざる者として排斥され、かえって選挙されることを迷惑がるような立派な人物を、無理やりに選挙民が担ぎ上げるという有様であった。中には本人の知らぬ間に、当選したものもあれば、本人の承諾なしに選挙してしまったものなどもたくさんあった。費用なども多くは、有志家の自弁で、候補者自身は一文も出さず、全部選挙民の負担したものなど至る所にあった。これでは投票買収などのあろうはずはない。同時に制*1) 現代の政治運動の多くは、自分と異なる意見に対して悪意を持って中傷する不寛容なものになっている。原因としては、ネット・メディアでの集団志向が指摘されている(「民主主義の壊れ方」デイヴィット・ランシマン、白水社、2020、p173)。*2) 戦時中の「出たい人より出したい人」の例として、安倍元総理の祖父、安倍寛氏が地元の村長に担ぎ上げられた話がある(「安倍家の素顔」安倍寛信、オデッセイ出版、2020、p126)限せずとも、選挙費用のかかろうはずが無く、その実際は、驚くべく金の要らぬものであった」というのである。選挙に金がかかるようになったのは、大正3年の大隈内閣が行った総選挙以来で、普通選挙制度の導入がそれを加速することになったとされている。英国のような党営選挙というのでなければそれはやむ得ない現象といえよう。米国の選挙でのお金のかかり方は、我が国の比ではない。そこで、選挙浄化運動が行われ、「出たい人より出したい人を」というスローガンが唱えられるようになった*2。しかしながら、最近では、このスローガンも聞かなくなっている。2地元から「出したい人」とはここで問題になるのが、地元の利益誘導ばかりするのが政治家というイメージである。それに対して、戦後の保守合同で活躍した大野伴睦は回顧録で以下のように述べていた。「多くの人の頼みごとを政治の上でどんどん反映さそうと努力すると、世間では「陳情政治」と批判する。しかし、民主政治から陳情を除いたら、そこに残るものは、明治の初めから築かれてきた官僚政治でしかない。お役所という官僚の安住の地で考えられる政治は、彼らの勢力拡大の政治である」。戦後自民党が長期に政権を維持してきたメカニズムが、この大野伴睦の言葉からうかがわれる。しかしながら、政治学者の佐々木毅元東京大学総長は、このような政治を議員が選挙区の利益に専念し、選挙民の「東京出張所」になるという意味で批判を込めて「地元民主主義」と呼ん危機対応と財政(番外編-2)政治のリーダーシップの基盤にあるもの ―官とマスコミ国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇50 ファイナンス 2021 Mar.SPOT

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