ファイナンス 2021年2月号 No.663
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各地の話題「一いっちょういっし張一弛」~梅香る県都 水戸~水戸税務署 総務課長奥田 拓也1はじめに水戸税務署は、明治29年に設置され、昭和43年に現庁舎が新築された後、東日本大震災を潜り抜け現在に至っています。管轄は茨城県の県都である水戸市のほか、笠間市、小お美み玉たま市、東茨城郡(茨城町、大洗町、城しろ里さと町)を合わせた3市3町で、管内面積は約910km2、管内人口は約46万人となっています。東京から約100km、茨城県のほぼ中央、関東平野の北東端に位置し、北は那珂川沿いから南は霞ヶ浦、東は太平洋、西は栃木県に隣接しており、管轄は広範囲となっています。2県都のまち 水戸古代から海や川の水の出入口を「みと」又は「みなと」といい、那珂川と桜川・千波湖との間に突出した大地の地形上の特色により「みと」と呼ばれていたようです。いつから「水戸」という特定の地名になったのかは、はっきりとしないようですが、1400年頃のものと推定される「吉田薬王院文書」には、「水戸」という記述が残されています。明治維新の後、廃藩置県が行われ、「水戸県」となり、明治22年4月に市制度が施行され、現在の「水戸市」が誕生しました。3お茶の間でもおなじみ水戸城は、大規模空襲により焼失してしまいましたが、平安時代に平家一門の馬場資すけ幹もとが水戸台地に館を構えたのが始まりとされています。その後、水戸城の主は変遷を重ね、徳川の世になり家康公の11男である徳川頼房が水戸城主となったことで、御三家水戸徳川家が始まりました。そして、お茶の間でおなじみ「先の副将軍、水戸光圀公」は水戸徳川家2代目の藩主として水戸徳川家の礎を築き、9代目藩主斉昭公とともに名君として称えられています。光圀公は貧しい農民の救済など様々な政策を実施しましたが、その中でも最大の仕事は「大日本史の編さん」と言われています。光圀公の日本の歴史書を作りたいという強い思いから始まった事業は、完成までに250年という長い年月をかけた一大事業となりました。なお、諸国漫遊の「水戸黄門」は明治時代に作られた物語が広まったもので事実ではありませんが、大日本史編さんのために活躍した「佐々木介三郎」と「安積覚兵衛」が「助さん・格さん」のモデルと言われ、光圀公自身もしばしば藩内を見て回っており、水戸黄門漫遊記はこうした逸話を受けて作られたようです。4偕に楽しむ公園金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられる「偕楽園」。江戸時代天保13(1842)年7月、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭公により、「民と偕ともに楽しむ場にしたい」という願いを込め開園された公園であり、広く領民にも開放された点で近代公園の先駆けと言われています。水戸水戸光圀と助さん格さん ファイナンス 2021 Feb.77連載各地の話題

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