ファイナンス 2021年2月号 No.663
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面かの変化はあるが、現在まで最高路線価地点は小田原駅の前にある。昭和31年(1956)まで運行していた路面電車のターミナル駅でもある。箱根登山鉄道の小田原市内線である。箱根登山デパートは、昭和34年(1959)に路面電車の駅の跡地に開業した百貨店である。昭和40年当時の地域一番店だった。東海道、甲州道の沿線から駅前に街の中心が移転した端緒が国鉄小田原駅の開業である。国府津駅に遅れること30余年、大正9年(1920)に開業した。当時は、国府津駅から枝分かれし熱海に向かう「熱海線」の仮の終着駅だった。部分開業に伴って、小田原電気鉄道のうち熱海線に並行する国府津・小田原の区間が廃止。代わりに東海道から小田原駅まで延伸し、小田原駅で箱根行に乗り換えできる路線となった。大正14年(1925)、熱海線が本来の終着点である熱海駅まで開通した。その後、昭和9年(1934)に丹奈トンネルが完成。熱海駅から箱根の山を貫いて沼津に直進するルートが東海道本線となった。それまで東海道本線だった御殿場線は支線となった。つまり小田原駅はわが国最大の幹線である東海道本線の途中駅となった。小田原駅の位置づけが重くなるにしたがって、街の重心も街道沿いから駅前に移っていった。箱根登山デパートの開業の後、昭和43年(1968)に志澤百貨店が駅前に開店した。駅前に大型店が増えたのはこの年以降10年に集中している。昭和46年(1971)に長崎屋、その翌年にニチイが進出した。横浜銀行が駅前に移った次の年の昭和50年(1975)、駅前広場に丸井が開店した。その翌年には駅前広場の下に地下街ができた。地方都市、それも人口20万人弱の規模での地下街はたいへん珍しい。ほぼ同規模の都市で地下街を持つのは他に富山県高岡市くらいである。なりわいで見せる街の歴史令和2年の小田原市の最高路線価地点は「小田原駅東口広場通り」で以前と変わらないが、他の地方都市と同様、全盛期に比べれば勢いの低下は否めない。2000年前後、郊外のショッピングモールにおされるように駅前大型店の撤退が相次いだ。地元百貨店の志澤は平成10年(1998)閉店。その後ニチイの後身のビブレや丸井が撤退するなど、昭和50年にかけて開店した駅前大型店はすべて閉店または業態転換した。青物町はじめ甲州道沿いの商店街は城下町以来の中心商店街だったが、シャッターを閉めたままの店が多くなった。平成25年に認定された小田原市中心市街地活性化基本計画によれば、平成3年から平成19年にかけて年間商業販売額が半分弱に落ち込んだ。空き店舗率は平成15年度で既に9.3%だったが平成23年度は17.9%とさらに悪化している。中心市街地活性化基本計画は平成29年度で終了。平成30年5月に公表されたフォローアップに関する報告を見ると、商業機能にかかる指標に大きな変化はうかがえない。その一方で市民意識が大きく改善。アンケートの結果、「活気が戻った」、「魅力のあるまちになった」、「このまま暮らし続けたい」と回答した市民が6割を超えた。平成20年度の調査によれば「歴史ある城下町だが、それを活かせない街」という意見が多数あった。フォローアップ報告では、小田原城のリニューアル事業や地下街再生事業が奏功した可能性を示唆している。「生活に便利な店が増えている」という回答もあったようだ。中心市街地の居住者数は平成元年(1989)の12,000人から平成16年(2004)に10,200人まで下がったが、17年(2005)年から増加に転じ、その後一進一退で推移している。平成29年は10,672人とここ数年は微減傾向だが、市域全体の減少ペースはなお速く、全体に占める中心市街地の住民の割合は高まっている。マンションが増えた。図4 千度小路(小田原かまぼこ通り・魚がし山車小屋前)(出所)令和2年12月19日に筆者撮影昭和35年(1960)に再建された小田原城は老朽化が目立っていたが、平成の大改修を経て平成28年に再び公開された。その他にも、歴史ある城下町を活かした街づくりに取り組んでいる。関東大震災で建物は56 ファイナンス 2021 Feb.連載路線価でひもとく街の歴史

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