ファイナンス 2021年2月号 No.663
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本陣・脇本陣や庶民が利用する旅籠が欄干橋町から高梨町にかけて軒を連ねていた。清水金左衛門本陣その他3軒の本陣の跡に記念碑と案内板が立っている。相模湾の漁場をのぞむ水産加工業の町でもあった。漁業が盛んになり市場ができ、干物、鰹節や蒲鉾製造業などの裾野産業に展開した。はじめは通年販売できるよう魚の保存を目的とした仲買人の副業だった。宿泊施設が軒を連ねた東海道の一筋海側の千せん度と小路を中心に、漁家や干物、鰹節や蒲鉾製造業が集積した。明治期にできた魚市場は早川の西側に移ったが、周辺には今でも蒲鉾製造業の老舗が多く残っており、「小田原かまぼこ通り」として観光名所になっている(図4)。小田原の伝統産業には水産加工業の他、小田原漆器や寄木細工のような伝統工芸品もある。宿泊客、今でいう交流人口を目当てに様々な周辺産業が発展した。城下町は町割の基軸であった東海道及び甲州道に沿って賑わった。これは明治になっても変わらなかった。鉄道の時代になったが、東西の大動脈たる東海道本線は小田原を素通りしていた。箱根の外輪山を避けるように小田原の手前の国府津で北に迂回した。今の御殿場線のルートであり、当初はこちらが東海道本線だった。明治期に国鉄駅ができた他の地方都市に比べ小田原は大正になってからと遅かった。それも開業当初は本線から枝分かれした支線だった。小田原には、国府津駅から東海道に沿って箱根湯本に至る小田原電気鉄道が通った。箱根登山鉄道の前身で、本社は大手門の向かい側にあった。そのすぐ近くには小田原通商銀行が明治30年(1897)に開業した。整理統合を経て明和銀行となり、昭和3年(1928)には同じ場所に本店を新築した。当地では数少ない昭和初期の銀行建築である(図3)。昭和16年(1941)の合同を経て今の横浜銀行小田原支店となった。横浜銀行は昭和49年(1974)に駅前に移転し今は中央労働金庫小田原支店として使われている。ちなみに他県を本拠とする銀行では沼津市に本店を構えるスルガ銀行の進出が早かった。大正2年(1913)、駿河銀行(当時)の支店が東海道の本町と甲州道の須藤町にできた。静岡銀行の前身の伊豆銀行、りそな銀行の前身行の一つ安田貯蓄銀行も戦前だ。伊豆銀行は東海道の宮前町にあった。甲州道の一丁田町に店を構えた安田貯蓄銀行は当時の建物が現存する。図3 旧・明和銀行本店(現・中央労働金庫小田原支店)(出所)令和2年12月19日に筆者撮影小田原駅の開業と駅前への重心移動昭和40年(1965)、小田原市の最高路線価は「箱根登山デパート」前だった。今の小田原駅東口、駅前広場ロータリーの向かい側だ。以降ロータリーのどの図2 小田原の中心街小田原城卍卍卍外堀跡(旧)明和銀行大工町須藤町欄干橋町筋違橋町城下町の町割箱根登山デバート跡至・箱根大手門(旧)安田貯蓄市庁舎跡小田原電鉄本社跡(出所)大和総研作成。なお街道沿いに付しているのは旧町名である ファイナンス 2021 Feb.55路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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