ファイナンス 2021年2月号 No.663
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中世の城郭都市としての小田原小田原は後北条氏5代の城下町である。大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受け、地震より前の建造物はほとんど残っていない。さりながら、城下町時代の町割や地形がよく残っており、往時を想像しながら街歩きを楽しむことができる。城下町といえば江戸時代に開かれたものが多いが、小田原は戦国時代に遡る。初代早雲が入城したのが明応4年(1495)。2代氏綱の頃には町割の原型ができていた。東西を貫く東海道と南北を走る甲州道を軸とした区画の上に家臣の屋敷が配置され、職人や商人の町家が建ち並んでいた。小田原城下町は戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めに備え街全体を土塁や堀で囲んだ「総構」が特長だ。わが国には珍しい城郭都市である。約2km四方、図1に示した総構のラインに沿って土塁や空堀が巡らされている。山側は尾根が天然の城壁になっている。南面は相模湾、東西は川が要害となっており、地形を活かした強固な構えだ。図の左上を頂点に連なる3本の尾根のうち真ん中が戦国時代の本城で、麓にあったのは城主の居館だった。今も山側には多くの空堀や土塁が残っており、戦国の山城好きにはたまらない見学コースである。都市計画において道路と並ぶプラットフォームが水道だ。小田原はわが国で初めて水道が布設された都市としても知られている。街の西側を流れる早川から取水し、東海道に沿って城下町に引き込んでいた。小田原用水ないし早川上水という。天文14年(1545)の書物で言及されていることからそれ以前に布設されたことがうかがえる。宿泊とその周辺産業による繁栄城下町以前に小田原は天険で知られた箱根峠をのぞむ宿場町でもあった。江戸時代、街道に沿って付された町名(図2)で言えば、参勤交代で大名が宿泊する図1 小田原の総構小田原城総構東海道(国道1号)国道1号早川山王川古城(八幡山古郭)(出所)国土地理院地図に大和総研が総構遺構、鉄道、道路等を加筆して作成54 ファイナンス 2021 Feb.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第12回 「神奈川県小田原市」なりわいで見せる城下町の足跡連載路線価でひもとく街の歴史

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