ファイナンス 2021年1月号 No.662
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戦後も丸亀町が高松市のメインストリートに変わりなかった。昭和45年(1970)の最高路線価地点は「野田屋電気店前丸亀町通り」である。高松丸亀町商店街振興組合の古川康造理事長の御実家だ。正確には「野田屋電機」という。駅前・ビジネス街の引力と郊外の席巻昭和52年(1977)、最高路線価地点が「常磐町1丁目常磐街」に移った。高松琴平電気鉄道(通称ことでん)のターミナル、瓦町駅の駅前の常磐町商店街のことで通称「トキワ街」という。この辺りの区画は戦後の開発で上書きされており、丸亀町ほどには城下町の町割りが残っていない。昭和40年代にダイエー、ジャスコが相次いで進出し賑わっていた。ただ、この通りが最高路線価地点だったのは13年程で、平成3年(1991)には兵庫町中央通りに移った。中央通りは戦後に完成した50m道路で市街地の南北を貫く。うっそうとしたクスノキの並木道が街の顔にふさわしい。ビジネス街でもあり官庁や民間企業のビルが建ち並んでいる。丸亀町から移転した百十四銀行の現本店はじめ銀行も多く、三井銀行、三菱銀行、三和銀行や日本興業銀行など戦後に進出した銀行は中央通りに支店を出した。戦後、丸亀町通りに並行する新たな南北軸である中央通りができ、それまで商業とともにビジネスの中心地であった丸亀町からビジネス機能が移っていった。香川県庁は昭和33年(1958)に丸亀町通りの北端から現在地に移った。東京都庁舎や国立代々木競技場等の設計で世界的に知られる建築家、丹下健三の初期の代表作だ。平成12年(2000)に22階建の新庁舎ができてからは東館となった。わが国を代表するモダニズム建築として高い評価を得ている。その後も丸亀町には試練が続いた。郊外店の席巻である。昭和末期からロードサイド店が増えた富山市などと比べれば高松市の商業の郊外化は遅かった。昭和63年(1988)に瀬戸大橋が開通するまでは物流の面で中央資本が進出しづらい地勢だったこともある。それが平成7年(1995)頃から急増した。高松市中心市街地活性化基本計画の資料によれば、店舗面積3,000m2以上の大型店42店の店舗面積が41万m2あるが、その約8割の約32万m2が郊外かつ平成7年以降に開店した店舗である。個別店を見ると平成7年の26,546m2、平成10年(1998)の54,590m2、平成19年(2007)46,849m2が大きい。高松市の中心街を遠巻きにするように大型ショッピングセンターが開図3 広域図大型ショッピングセンター平成7年(1995)26,546㎡平成10年(1998)54,590㎡平成19年(2007)46,849㎡半径1km中心から徒歩15分圏さぬき浜街道高徳線半径4km中心から自転車15分圏(出所)国土地理院地図の地形及び鉄道・道路網に筆者が加筆して作成図2 香川県庁東館(提供)香川県観光協会 ファイナンス 2021 Jan.62路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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