ファイナンス 2021年1月号 No.662
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がられたが、筆者としては問われたことに対して相手が納得するまで説明しようとしたことへの勲章だと思っている。だから、卒業式で表彰されたのだ。米国におけるディベートの第一歩は、お互いに相手の言うことをよく理解することである。その上で議論することが大切なのだ。米国の小学校では、Speak outということで、まずは自分のことをしっかりと相手に説明することを学ばせられる。そのようなディベート教育が、小さいころから行われているのだ。カリフォルニア州の公共放送でも、様々な年代の人が登場して、自らの考えを主張するコーナーが設けられていた*15。ところが、日本では小学校から大学にかけて、およそそのようなディベート教育は行われていない。そして言うべきことを言うことが、下手をすると「喧嘩」を売ったと見なされる特殊な言語空間が成立している。そのような言語空間で生活している日本人は、組織の後ろ盾がない限り堂々たる主張を行わず、外国人からすると常にあいまいな微笑をたたえて何を考えているのかわからないと受け取られることが多い。その結果が、国際会議において有名な日本人の3S(Smile、Sleep、Silent)だ。討議の対象になっていることについても、本省から訓令を受けていない限りは発言をせず(Silent)、自分の責任で発言しようという心構えもないことが態度に現れ(Sleep)、発言を求められると、その場の雰囲気で多数に迎合してしまう(Smile)。そのような国際会議での日本人について竹内靖雄成蹊大学教授*16は以下のように述べている。「日本人は、(中略)自分の意思を明確に示して、それを相手に押し付けることはイヤなのであり、相手の反発や反感が恐ろしいのであり*17、だから今の日本は第3世界への経済援助を使って政治ゲームを展開する意欲すらもっていないらしい。しかしお歳暮、お中元ならともかく、黙ってカネやモノを贈るだけでは政治にはならない。カネとともに言葉を使って平和主義なら平和主義を相手に押し付けるのが政治であるが、日本にはその意思も言葉も欠けているのである。」同様の指摘を、研究者について行っているのが*15) 筆者が留学中に、大学時代の恩師である芦部信義先生が、カリフォルニアの公共放送サービスについて調査に来られ、スタンフォード大学とバークレー大学にご案内した。*16) 「正義と嫉妬の経済学」講談社、1992*17) 日本では、国民の間に最終的にコンセンサスを得なければならないという思いが強く、それが国際社会で孤児になったらどうするという世論を生み出して交渉当事者の行動を縛っている面があると考えられる。*18) 経済財政諮問会議「経済活性化戦略会合」平成14年3月29日*19) 以上に述べた点は、最近、外務省を中心に、かなり変わってきているように思われる。2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏である。同氏によると、「欧米の研究者は成果を自信をもって発表するし、すごいことを発表しているように聞こえる。子供の頃から利点をアピールする訓練をしているためだ。(日本経済新聞2002.10.11)」という。なお、このような姿勢は、日本におけるベンチャーが育ちにくい土壌の背景にもなっている。思いついたアイデアが他者と違うからこそものになるのではと確信して突き進むところにベンチャー精神があり、ベンチャーが生まれるのである。ところが、日本流のディベートを避ける教育を受けてきた人々は、議論して自分の考えが他者と違う場面に遭遇すると、強い不安心理を持つようになる。坂村健東京大学情報学環教授*18は、日本人は「不安になった時パニックに陥り、冷静な判断が出来ない。(中略)米国人は怒り、戦う。日本人は、本当に駄目になってしまう。苦境にジョークが言えるようでないと駄目。日本ではこれは不謹慎で、死ぬしかない。笑いがない。「ビル・ゲイツ」を探せと言うが、そんな人は日本にいない」と述べている。今日の日本人は、組織に支えられていないとその能力を十分に発揮できない者ばかりになってしまっているのである。組織のためなら滅私奉公となるが、自らの考えで新しい企業(ベンチャー)を起こしていこうといった人はなかなかいないのである。そんな日本人は、組織の後ろ盾を得ている(本省から訓令を受けている)ような場合には、会議の流れ如何にかかわらず頑強に自説を主張して周囲を辟易とさせることになる。しかも、主張する本人も、言葉で相手を納得させようとは思っていないのである。しかしながら、それでは、相手を納得させることはできない*19。言葉で相手を納得させようとしない日本人の行動の背景には、我が国においては言葉が、論理によって相手を説得するための道具、すなわちディベート(討論)のための道具ではなく、言葉自体として相手をいたわったり、また、ものの「あはれ」をあらわしたりする道具になっていることがあるというのが筆者の考えである。伝統的な日本型のリーダーは、合意形成プ37 ファイナンス 2021 Jan.SPOT

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