ファイナンス 2021年1月号 No.662
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ようとするのが米国流なのだ。この点について、春具氏*9が以下のような指摘を行っている。「多民族国家アメリカの素晴らしいところは「みな、違うんだ」という前提で相手を見つめようとするところです。『能について説明してくれ』といわれ、日本人でさえよく知らないことを、文化背景の違うアメリカ人に説明しても分からないだろうなと思い、『難しいよ』というと、『それでもいいから』と促されて説明しました。案の定、よく理解できない。すると『もう一度』と言います。これが一度でなく、結局数回言い方を変えながら説明しました。おそらく、それでもこちらの言語力もあって、半分も分からなかったと思います。しかし、未知のものを理解しようという姿勢には頭が下がります。日本人同士なら『多分理解できないよ』といって、最初から一度も説明せずに終わらせます。これでは、アメリカ人は半分は理解したのに、日本人同士ではゼロということになります。」そんなアメリカ流のおかげで、筆者は卒業式の時に表彰されたというわけである。4イランの米国大使館占拠事件日本の経営についての勉強会が軌道にのった留学生活の2年目の冬に起こったのが、イランの米国大使館占拠事件(イラン革命)であった。その際、現地の新聞に、日本の商社がイランの原油を購入して利敵行為をしているとの報道がなされた。しかしながら、調べてみると、イランからの原油輸出が突然止まると世界の原油市場が混乱するということで、日本の通商産業省(当時)が米国のエネルギー庁と水面下で調整のうえ、原油の買い付けを行ったということであった。そこで、その旨をレポートにして勉強会で発表したが、興味深かったのは、その時の米国人学生の反応だった。新聞など読んでいる人は少ないから、そんなに気にすることはないよというのである。また、こちらは役所出身者として、日本の国をしょっているような気分でレポートを作成したのだが、個人と国家は違うんだから気にするなという反応もあった。多数決で物事*9) 78年~2010年まで、ニューヨーク、ジュネーヴ、ハーグにて国際連合人事局人事官、国際連合安全保障理事会湾岸戦争賠償委員会法務官、化学兵器禁止機関訓練人材開発部長兼人事部長。*10) 当時、ビジネス・スクールは日本ではあまり知られておらず、人事院の留学でビジネス・スクールに留学したのは、小手川さんが最初だった。*11) ビジネス・スクールには、その後ノーベル経済学賞を受賞したウィリアム・シャープ教授や、ニクソン政権で財務長官を務めていたジョージ・シュルツ教授(特別講義担当)など、そうそうたる教授陣がそろっていた。を決めても、少数意見が残るのが当たり前、いちいち国が行ったことに個人が責任を感じることなく自由に議論するという欧米流の民主主義の原点を、そこにみたような気がした。5石油価格高騰についての分析筆者がスタンフォード大学のビジネス・スクールを選んだのは、1年先輩の小手川さんに勧められたからである。その際に言われたのは、スタンフォードにはビジネス・スクールには珍しく公的部門を研究するパブリック・マネジメント・オプションがあるということだった*10。そのパブリック・マネジメント・オプションの科目にあったのがエネルギー問題。ワシントンの政府高官だったエントーベンという教授が教えていた。原油の価格は、戦後、長らく2ドル程度だったものが、1973年の第1次オイルショックで10ドルを超え、イランの米国大使館占拠事件の原因となったイラン革命で36ドル台にまで上昇していた。そして、今後は50ドルにも100ドルにもなっていくという観測がもっぱらだった。その観測について、エントーベン教授は、原油価格が50ドルになれば、カナダやベネズエラに豊富な埋蔵量があるオイルサンドやオイルシェールが開発されてくるので、長期的にはそんなに上がることはない、むしろ下落の可能性があると分析していた。それは、世の中が、原油が上がる一方だとしている中で、データに基づく冷静な分析だった。翌年、帰国して、その分析を幾人かの知人に話したが、そんなはずはないという人ばかりだった。果たして、その後原油価格は15ドル程度にまで下がっていった。米国においても、エントーベン教授のような分析は少なかったが、自らの分析に基づいて、学生に講義をする教授の姿には印象深いものがあった*11。6米国人の学生が目指していたもの米国のビジネス・スクールの学費は高い。米国人の学生は、3-4年の実務経験があって、キャリア・35 ファイナンス 2021 Jan.SPOT

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