ファイナンス 2020年12月号 No.661
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ら当初は中央通りの側を向いていたとうかがえる。大正2年(1913)に市内電車が開通。市街を南北に貫く本線、富山城を迂回して富山駅に至る支線が敷設された。両者が交差する西町を中心に総曲輪エリアが以前に増して賑わった。大正12(1923)年に富山初の百貨店「岡部呉服店」が中町で開店。電車通りと中央通りの角にあった。昭和7年(1932)には金沢市に本店がある宮市大丸が西町に支店を出した。宮市大丸は今の大和百貨店である。川筋跡にできた昭和モダン新都心富山の街の近代史は神通川の付けかえを抜きに語れない。旧来、蛇行する神通川が氾濫し洪水を起こすのが悩みの種だった。そこで水かさが増したときに湾曲部分を短絡し下流に流す幅2mの分水路「馳越線」を開削。明治36年(1903)に完成した。分水路は段階的に拡幅され、大正の頃にはこちらが神通川の本流になり、元の流路は川筋に沿った窪地になった。付けかえ工事で旧流路にできた広大な空き地の活用が課題となった。川筋の窪みを埋め立てるのに使われたのが「富岩運河」の開削土である。発着点の富山駅北側と岩瀬港の頭文字にちなんで名付けられた富岩運河は、臨海工業地帯の整備を見込んで計画された。昭和5年(1930)に着工し10年(1935)に完成した。昭和10年、埋め立て地にアーチ式の鋼橋の「桜橋」が架けられた。同じ年に富山県庁が完成。翌年には北陸電力の前身の日本海電気の本社ビルの富山電気ビルデイングが竣工した。この年が事実上の街びらきとなり、埋め立て地の1区画で日満産業大博覧会が開かれた。桜橋、富山県庁、富山電気ビルデイングは現存し国の登録有形文化財に指定されている。城下町以来の街の外側に今でいう新都心ができた。川筋跡のまとまったエリアに昭和モダンの街が見て取れる。川で分断されていた街が一体化したという意味もあった。明治32年(1899)に開業した国鉄富山駅は蛇行時代の神通川の向こう岸にあった。分水路ができてからは富山駅は神通川の中州にあったことになる。川筋跡の開発によって言わば「島」だった富山駅前と城下町エリアが一体になったのだ。総曲輪エリアの発展と衰退戦後も引き続き総曲輪エリアが街の中心だった。中央通りには昭和46年(1971)に長崎屋、総曲輪通りには昭和51年(1976)に西武百貨店が進出。商業中心地としての地位は盤石と思われた。潮目の変化は平成4年(1992)である。最高路線価地点が総曲輪通りから「桜町1丁目白倉第6ビル前駅前通り駅前広場」に移った。駅前広場に面して店舗面積10,000m2級の再開発ビルができた年だ。その数年前に駅ビルの開業もあり駅前エリアの発展は目覚ましかったが、郊外のロードサイド商業集積の攻勢で総曲輪エリアの地位が相対的に低下した側面もあった。富山市は車社会化が他都市に比べ早いペースで進んだ。世帯当たり乗用車保有台数が1を超えたのは平成元年(1989)。群馬、栃木、岐阜、茨城県に次ぐ5番目だった。その2年前の昭和62年(1987)に全線4図2 広域図神通川岩瀬地区大型ショッピングモール富山ICあいの風とやま鉄道富岩運河環水公園(出所)国土地理院地図の地形及びJR路線図に筆者が加筆して作成 ファイナンス 2020 Dec.59路線価でひもとく街の歴史連載路線価でひもとく街の歴史

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