ファイナンス 2020年12月号 No.661
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うと、どのようなイメージを持たれているでしょうか。ベルリンの壁、舞姫の舞台、ベルリン管弦楽団などなど。もちろん、これらもベルリンの特色の一つではありますが、私がこの地に来て特に感じたのは、非常にクリエイティブな街だということです。これは、2003年当時の市長であったクラウス・ヴォーヴェライト(Klaus Wowereit)氏が述べた「ベルリンは貧しい、けれども非常にセクシーな町である(Berlin ist arm,aber sexy)」という言葉に表されていると思います。では、なぜベルリンはこのような特徴を持つに至ったのでしょうか。ご存じのとおり、ドイツは第二次世界大戦後、分断の時代を迎えることになり、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)という2カ国が存在する状態が長い間続きました。この分断の時代において、ベルリンは非常に特殊な状況におかれます。すなわち、基本的に、地理的に西側にある州は西ドイツ、地理的に東側にある州は東ドイツの領域となったのですが、ベルリンだけは、一つの都市の中で西側が西ドイツ、東側が東ドイツの領域という形になり、いわゆる西ベルリンが、東ドイツの中で飛び地にある状況となります。当初は、東西ベルリン間でも人*9) https://www.tagesspiegel.de/berlin/laenderstatus-der-hauptstadt-warum-berlin-arm-ist-und-warum-das-nicht-so-bleiben-wird/8989228-2.html*10) https://www.wsi.de/de/einkommen-14582-wsi-vm-verfuegbare-einkommen-staedte-15214.htm*11) https://www.dw.com/de/1989-revolution-der-clubkultur-im-wiedervereinigten-berlin/a-51033602*12) https://www.berlin.de/clubs-und-party/*13) https://www.berlin.de/mauer/orte/ehemalige-grenzuebergaenge/bahnhof-friedrichstrasse/の往来があったのですが、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらないことがあり、とうとう1961年にはドイツ分断の象徴であるベルリンの壁によって同都市は西側と東側に分断されてしまいます。このような背景があり、西ドイツの産業の中心は、東ドイツ側から離れた西側に移動することになり、西ベルリンは産業の基盤を失ってしまいました。*9経済社会研究所(WSI)の2016年の調査によると、ベルリンの物価は、首都であるにもかかわらず、ドイツの15大都市の中で、下から5番目と低めの水準になっています。*10一方で、ベルリンの置かれたこの複雑な状況は、特に壁崩壊後、独自の文化を発展させることになります。壁崩壊後、東ベルリンの地区にあった発電所や工場などの多くの建物は廃墟となりました。これらの廃墟に若者たちが集まり、違法なパーティーを開くようになりました。*11その後もベルリンのクラブカルチャーは発展を続け、ベルリンは世界でも有数のクラブ地域となります。現在では、ベルリン市の公式ホームページがクラブについて説明するほど、クラブはベルリンにとって重要な観光資源の一つとなっています。*12*13また、ストリートアートも、ベルリンの文化をベルリン分断とその爪痕は今も残されていて、街を歩いていると至るところで見かけます。例えば、私が以前住んでいた場所の近くには、フリードリッヒ通り(Friedrichstraße)駅というのがありますが、ここはかつて、東ベルリンと西ベルリンの境となっていた駅であり、ここの国境通過のための場所は、東と西に住む家族や親戚、友人等の別れの場になったことから、涙の宮殿(Tränenpalast)と呼ばれています。*13また大使館の最寄りにあるポツダム広場(Potsdamer Platz)駅付近では、壁によって分断されていた地域であり、今でも以下のように壁のあった場所を指し示す跡が残されています。写真は、現在のポツダム広場駅であり、道路を横切って走っている線がかつてベルリンの壁があった場所です。コラム ベルリン分断とその爪痕 ファイナンス 2020 Dec.51海外ウォッチャーFOREIGN WATCHER連載海外 ウォッチャー

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