ファイナンス 2020年12月号 No.661
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臣を務めていた竹下登*10であった。竹下首相は、消費税への国民の理解を得るために幅広く議論を行い*11、平成元年に所得税の減税などと組み合わせて全体として減税超過の下での消費税導入を行った。消費税は、小さく生んで大きく育てるとして当初3%で導入され*12、その後、平成6年からの自民・社会・さきがけ(自社さ)の3党連立による村山富市首相(武村正義大蔵大臣)の下で5%に引き上げられた*13。4財政構造改革の挫折消費税の導入が減税超過で行われ、5%への引き上げも所得税の先行減税とのセットで行われたことから、わが国の構造的な財政赤字体質は残されたままとなった。その改革に取り組んだのが、自社さ連立政権の橋本龍太郎首相による財政構造改革であった*14。それは、EUでのユーロ導入を契機として世界的に財政健全化が大きな流れとなり、サミットでも「信頼できる財政健全化計画」が提唱される中でのことであった。平成8年10月に行われた衆議院議員選挙において、自民党は「財政のあり方についての合理的な基準や中長期的な財政再建計画、財政再建法についても検討する」との公約を掲げて239議席を獲得し、選挙後に結ばれた自社さの3党合意には財政再建の方針が盛り込まれた。平成9年度予算(対前年度+3%)についての年頭のマスコミ評価は、おしなべて諸外国が財政再建を進めている中で、「歳出削減が不十分で到底財政再建元年度予算とはいえない」との厳しいものであった。その1月には、橋本首相を議長に、歴代の自社さの首相、大蔵大臣などをメンバーとする財政構造*10) 「言語明瞭、意味不明」といわれた竹下元首相の、日本型コンセンサス形成の手法の一端を垣間見させていただいたエピソードとして筆者の印象に残っていることに、財政構造改革会議の説明でご自宅に伺った際の以下のような話がある。「政治家は、いろいろな陳情を受ける。中には無理なものもある。そんな陳情者には、ああ、竹下先生に分かってもらえて良かったと思って帰ってもらう。そして、家に戻って風呂にでも入っているうちに、ひょっとして今日の陳情は無理だと断られたんだろうかと思い返すようにできれば上等だ」というのである。そのお話しの背景には、日本語の奥深さがあるように思われた。*11) 竹下首相は、自ら全国各地で税制改革懇談会(「辻立ち」)を行い、国民に税制改革の必要性を訴えられた。*12) 消費税が導入された翌年の選挙では、自民党税調のドンと言われていた山中貞則代議士(鹿児島県選出)が「消費税は日本の、そしてふるさと鹿児島のために是非とも必要だ」と熱心に訴えられたが、落選された。*13) この時、筆者は主税局で与党税調担当として関与した。*14) この時、筆者は主計局の調査課長として関与した。*15) 会議には、元首相、元蔵相、3党幹事長、3党政調会長といった政治家が勢ぞろいした。会議を取り仕切ったのは、梶山静六官房長官と与謝野馨官房副長官であった。梶山長官は、「俺の目が黒いうちに財政再建の道筋だけはつけておきたい」とおっしゃっていた。*16) 小渕元首相は、「偉ぶらず、常に謙虚で目線を低く生きる、そうした姿勢で凡庸に見えて非凡という境地を開かれた(衆議院本会議における村山元総理の追悼演説)」リーダーであった。*17) この時、大蔵大臣に迎えられた宮澤元首相は、首相経験者で大蔵大臣になったのが同じということで「平成の高橋是清」と言われて積極財政を期待されていた。ところが、調査課長だった筆者が調べてみると高橋財政期は「緊縮財政の時代」と言われていた。それが、筆者が財政史を研究することになったきっかけである。*18) 田原総一郎氏によるインタビュー*19) 毎日新聞の中島章雄記者(当時)は、「小渕さんは『国民に対して財政再建のめどをつけないで辞めるというのは、バラまいた立場から言えば申し訳ない』と率直に語り、『だから、その責任を負っているから歯を食いしばってでもやらなければならない』と語気を強めたのだ。飄々とした外見からは想像もつかない厳しい言葉だった」(毎日新聞2000年5月14日)と述べていた。改革会議*15が設置された。同年春に、平成8年の我が国の経済成長率がG5諸国中で最高だったことが明らかになると、武村前大蔵大臣は財政制度審議会答申が2005年度までの8年間で財政再建を図るとしていたのを、2003年度までの6年間に前倒しする案(前3年を集中改革期間とする)を提言した。そのような中で出来上がったのが、橋本内閣の財政構造改革法で、公共事業をバブル崩壊対策前の水準に削減し社会保障費の伸びも厳しく抑制するといった包括的な財政再建策を打ち出していた。しかしながら、同年末に山一證券の破綻などをきっかけに金融危機が起こり、それにアジアの金融危機も重なって経済に不況の色が濃くなっていくと財政構造改革法は凍結されてしまう。その後、財政再建に取り組もうとしたのが、橋本首相を継いだ小渕恵三首相*16であった。小渕首相は、まずは「二兎を追うものは一兎をも得ず」として経済再建に全力を傾注し、9兆円もの「恒久的減税」を断行した*17。しかしながら、他方で「財政再建は一時も私の頭から離れたことはありません」として、財政赤字の最大の要因である社会保障についての問題を考える検討会を立ち上げるなど財政構造についての議論を深めていった。そして、デフレが依然続いていたとは言うものの経済成長率がプラスに転じた平成12年の2月には、訪問した沖縄でのインタビューに応えて財政再建の必要性を訴えた*18。しかしながら、その2か月後の同年4月、小渕首相は急逝し、財政再建に着手することはなかった*19。その後の小泉純一郎内閣では、デフレ脱却が進まない中で「経済再建なくして財政再建なし」との路線が22 ファイナンス 2020 Dec.SPOT

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