ファイナンス 2020年12月号 No.661
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にかかわってきたが、日本の近代化においても民主政治(立憲主義)の発展に関与したのである*5。2大正から昭和にかけての財政運営時代が大正になって起こった第1次世界大戦で、日本は漁夫の利を得、財政事情は一時劇的に好転した。しかしながら、それが実力によるものでなかったことから、大戦の終了後には経済は戦後恐慌に見舞われ、財政も再び悪化した。そこで行われたのが、大正10年に成立した高橋是清内閣で蔵相となった浜口雄幸*6による緊縮財政(予算削減、官公吏の減俸等)だった。しかしながら財政は、大正12年の関東大震災によってさらに悪化していった。関東大震災は、当時の国民総生産の3分の1にも相当する被害を日本経済に与えたのである。実は、そのような中で成立したのが、戦前のわが国の二大政党制であった。大正13年の護憲3派の運動による加藤高明内閣成立から8年間が政党内閣時代とされている。この時代の財政運営のトップ・スターが高橋是清だった。今日、高橋は井上準之助の金解禁による不況を克服するために積極財政を断行した大蔵大臣として知られているが、基本的にはそれまでの大蔵大臣と同様の健全財政論者だった。ただ、経済の実態に合わせて柔軟な財政政策を展開する点において、それまでの大蔵大臣とは異なっていた。高橋は、犬養内閣で積極財政を展開した後、斎藤・岡田の各内閣では、軍部の軍事予算増額要求に抵抗して厳しい緊縮財政路線を打ち出したのである。しかしながら、その路線は、2・26事件(昭和11年)で高橋蔵相らが暗殺されるとタガが外れ、その後、軍の暴走による財政悪化に歯止めをかけるものは無くなってしまった。その結果が、国民生活に多大の苦しみを与えた先の戦争への突入であった。3戦後の財政運営先の戦争後、戦争で借金まみれになったわが国の財政再建に取り組んだのは石橋湛山であった。第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任(昭和21年5月)した石橋は、*5) 「税は国の基」である。それは、筆者が大蔵省(当時)に入って最初に配属された主税局調査課の佐藤光夫調査課長の言葉であった。佐藤課長は、当時IMF帰りのエコノミストで、あるべき日本の税制について日々議論しておられた。*6) 濱口は、昭和5年の「統帥権干犯問題」で有名だが、それも財政再建のための財源確保を念頭にロンドン軍縮会議に取り組んだからであった。*7) 「現代日本財政史(上)」鈴木武雄、東京大学出版会、1952、p304-307*8) 「石橋湛山の財政思想 戦後復興の基礎の形成」松元崇、日本財政学会第77回大会、2020*9) 筆者が大蔵省(当時)に入省したのがこの時期(昭和51年)である。当時の主税局長室(大倉真隆局長)では、ヨーロッパ諸国が導入しているのと同じような付加価値税を導入しないと、日本企業が国際的な競争の中で不利になるといった議論が行われていた。復興金融公庫を創設するなどの積極的な経済政策で知られているが、昭和22年度予算では健全財政を目標に掲げ、公債発行抑制のために、所得税の対前年度3.5倍、酒税の6.5倍の大増税、煙草値上げによる専売益金の3倍の増収などを打ち出した*7。石橋は、経済成長と健全財政の両にらみで経済と財政を共に再建しようとしたのである*8。とはいえ、戦後の財政再建の最大の立役者はハイパー・インフレーションだった。軍部の独走を抑えられなかったことによる巨額な財政赤字は、結局のところそのような形で国民の負担によって清算されたのである。その後、高度成長が始まると、それまで経験したことのないような毎年の自然増収が生じて、明治維新以来、政府を悩ませてきた財政問題は政治の表舞台から姿を消していった。そこで登場してきたのは、自然増収をどう配分するかという問題で、予算面では補助金が、税制面では租税特別措置が活用されることになった。その際生じる各方面の利害調整には、前回ご紹介した与党の事前審査制度などが、大きな役割を果たすことになった。しかしながら、毎年の自然増収をもたらした高度成長は、昭和48年のオイル・ショックで終焉する。それ以降、日本は再び大きな赤字を抱えて財政再建の課題に取り組むことになった*9。まず打ち出されたのが大平正芳首相の一般消費税であった。しかしながらそれには国民の理解が得られず、大平首相は昭和55年の選挙戦の中で倒れて逝去する。その後、鈴木善幸首相が増税なき財政再建を掲げて行財政改革に着手する。鈴木首相が掲げた財政再建目標(50年代に特例債依存体質から脱却)の達成が不可能であることが明らかとなると、その後を継いだのは鈴木首相の下で行政管理庁長官として行財政改革を手がけていた中曽根康弘であった。中曽根首相は、国鉄・コメ・健保の3K改革を強力に推し進めると同時に負担面についても抜本的な税制見直しが必要としてその改革を国民に訴えた。しかしながら、負担面での改革についての国民の理解は得られなかった。中曽根首相を継いだのは、中曽根首相の下で大蔵大 ファイナンス 2020 Dec.21危機対応と財政(最終回)SPOT

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