ファイナンス 2020年12月号 No.661
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新型コロナ・ウィルスとの闘いは、ワクチン開発に期待がかかるが、当面、冬場の感染拡大が心配されている。この間の各国の財政赤字の積み上がりぶりには著しいものがある。このままでは、やがて財政再建が世界的な課題になり、各国それぞれのリーダーシップが問われることになろう。本稿の最後に、わが国の明治維新期以来の財政再建の歴史と今後直面するであろう財政危機を概観しておくこととしたい。1明治時代の財政再建我が国が近代国家になって最初の財政再建は、大久保利通のリーダーシップによるものであった*1。戊辰戦争で成立した明治維新政府は、戦費を太政官札でまかない財政は大赤字だった。その大赤字を立て直し、近代国家建設の財政的基盤*2を確かなものとしたのは、明治6年度からの地租改正だった。地租と言われても分かりにくいが、要は江戸時代の年貢で、地租改正はそれを倍以上にするという大増税*3だった。大久保は、征韓論のあった明治6年に大蔵卿から内務卿(実質上の首相)に転じたが、明治8年には地租改正事務局の総裁に就任し、大隈重信大蔵卿、松方正義租税頭を指揮して地租改正に取り組んだ。倍以上の大増税だった地租改正には明治6年から14年度までの8年間もの日時を要し、その間には大規模な地租改正反対の一揆(伊勢暴動、真壁暴動等)が起こった。大久保は、明治11年に暗殺されるが、その背景には地租改正への反発もあったはずである。地租改正が、そのような大増税だったこともあって、*1) 明治6年に征韓論で西郷隆盛らが下野した後の明治政府は、大久保が絶対的な権威を確立して大久保独裁政権と呼ばれた。大久保は、西郷人気の陰に隠れて人気がないが、筆者のふるさと鹿児島の生んだリーダーの一人である。*2) 戦後独立したアジア・アフリカの多くの国々が、植民地時代に宗主国が築き上げたモノカルチュアの経済を前提とする貿易からの関税収入に国家建設の財源を求めたのに対して、安政5年(1958年)の不平等条約(日米修好通商条約)で関税自主権を失った明治日本は、内国税に国家建設の原資を求めざるを得なかった。*3) 地租収入は、明治5年度の2005万円が、地租改正初年度の明治6年度に5060万円と2.5倍になっている。*4) 当時、成長のために必要な外資を導入するためには金本位制の維持が必須とされ、金本位制を守るために緊縮財政が求められた(「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」松元崇、中公文庫、2012、p106-107、249)明治23年に第一回帝国議会が開かれると、第1回の総選挙で多数を占めた民党は「民力休養・政費節減」のスローガンの下に予算削減を求めて政府と厳しく対立することになった。政府と民党の対立は、明治27年の日清戦争を契機に納まっていくが、日清戦争での清国の敗北は「眠れる獅子」と言われていた清国の弱体ぶりを露呈する結果となって、西欧諸国の極東に対する植民地化の圧力を強めることになり、日本周辺ではロシアの圧力が強まった。そこで求められることになったのが、ロシアを想定しての軍備増強で、そのための財源として更なる地租の増税(地租増徴)が求められることになった。地租増徴は、第2次松方内閣、第3次伊藤内閣が失敗した後、明治31年の山縣有朋内閣に至ってようやくその実現を見た。そのようにして迎えた日露戦争(明治37-38年)に日本は勝利したが、それは戊辰戦争の時と同様に、戦費を大きな借金でまかなってのものであった。しかも借金の多くが外債だったことから、政府は日本経済の国際的な信用を保つ上から厳しい緊縮財政を迫られることになった*4。そこで行われたのが、陸海軍からの軍備拡張要求を抑えつつの増税(明治39年の西園寺内閣)や地方の自力での財政健全化をうながす地方改良運動(明治41年の桂内閣)であった。しかしながら、そのような厳しい財政政策は、ロシアに勝ったのになぜだということで国民の不満を募らせることになった。そして、その不満が背景となって憲政擁護運動が展開されて大正デモクラシーにつながっていった。税は、マグナカルタ以来、民主政治の発展と密接危機対応と財政(最終回)我が国の財政再建とリーダーシップ国家公務員共済組合連合会 理事長 松元 崇20 ファイナンス 2020 Dec.SPOT

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