ファイナンス 2020年11月号 No.660
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軍港と城下町 ふたつの歴史から成る街舞鶴舞鶴税務署 総務課長中沢 隆浩1はじめに舞鶴税務署は、京都府北東部の日本海に面する舞鶴市を管轄しています。署の沿革は古く、明治22年6月に開設後、一時、宮津税務署に行政を移管していましたが、昭和22年7月に旧帝国陸軍舞鶴要塞司令部跡に庁舎を設置し、現在もその地に構えています。舞鶴市の面積は約350km2で市街地は旧田辺藩の城下町・商港から発展した「西舞鶴」と海軍の軍港から発展した「東舞鶴」から構成され、東端は金沢国税局小浜税務署管内の福井県大飯郡高浜町に隣接しています。 ●はじめに 舞鶴税務署は、京都府北東部の日本海に面する舞鶴市を管轄しています。 署の沿革は古く、明治22年6月に開設後、一時、宮津税務署に行政を移管していましたが、昭和22年7月に旧帝国陸軍舞鶴要塞司令部跡に庁舎を設置し、現在もその地に構えています。 舞鶴市の面積は約350 kで市街地は旧田辺藩の城下町・商港から発展した「西舞鶴」と海軍の軍港から発展した「東舞鶴」から構成され、東端は金沢国税局小浜税務署管内の福井県大飯郡高浜町に隣接しています。 【旧帝国陸軍舞鶴要塞司令部の写真】 ※ 署敷地内には、「舞鶴要塞司令部跡」の石碑があります。 ●軍港に適した地形「舞鶴湾」 舞鶴湾を一望することができる五老ケ岳(標高301m)を挟み、西側に位置する西舞鶴地域は、奈良時代から開け、天正8年(1580年)に戦国の武将細川藤孝(幽斎)・忠興父子が田辺城(別名舞鶴ぶかく城)を築城して以降、細川、京極、牧野氏3万5千石の城下町として栄えました。 また、東側に位置する東舞鶴地域は、明治34年に海軍鎮守府が開庁されてからは軍港として大きく発展し、現在は海上自衛隊舞鶴総監部が置かれています。 市街地の碁盤状に整備された通りには、「三笠」、「八島」、「朝日」等の軍艦の名前が付けられており、街歩きをしながら通りの名に目を向けることも旅の楽しみのひとつです。 そして、日本海から深くえぐるように形成された舞鶴湾は湾口が狭く、敵艦からの侵入がしにくい上に、周囲を取り囲む山は、要塞として敵艦を迎撃することができます。 この特徴は海外の軍港でも見られ、ハワイの真珠湾の地形は舞鶴湾とそっくりな形をしています。 【舞鶴湾】 【真珠湾】 ●近代日本の礎を築いた「赤レンガ」 近代国家としてヨーロッパ列強と渡り合うため、明治34年に舞鶴湾ウォーターフロントに舞鶴鎮守府(初代長官は東郷平八郎)を開庁しました。 そこでは、魚雷庫、小銃庫などの旧海軍関連の施設をはじめ、トンネルや橋脚などの生活基盤まで、日本が近代化を進めていくための礎として様々な建造物が造られました。 【明治後期の雰囲気が漂う赤レンガ倉庫】 現在も12棟の倉庫が残っており、「赤レンガパーク」と呼ばれるこのエリアは、ジャズライブ等 軍港と城下町 ふたつの歴史から成る街 舞鶴 舞鶴税務署 総務課長 中沢 隆浩 旧帝国陸軍舞鶴要塞司令部の写真※署敷地内には、「舞鶴要塞司令部跡」の石碑があります。2軍港に適した地形「舞鶴湾」舞鶴湾を一望することができる五老ケ岳(標高301m)を挟み、西側に位置する西舞鶴地域は、奈良時代から開け、天正8年(1580年)に戦国の武将細川藤孝(幽斎)・忠興父子が田辺城(別名舞鶴ぶかく城)を築城して以降、細川、京極、牧野氏3万5千石の城下町として栄えました。また、東側に位置する東舞鶴地域は、明治34年に海軍鎮守府が開庁されてからは軍港として大きく発展し、現在は海上自衛隊舞鶴総監部が置かれています。市街地の碁盤状に整備された通りには、「三笠」、「八島」、「朝日」等の軍艦の名前が付けられており、街歩きをしながら通りの名に目を向けることも旅の楽しみのひとつです。そして、日本海から深くえぐるように形成された舞鶴湾は湾口が狭く、敵艦からの侵入がしにくい上に、周囲を取り囲む山は、要塞として敵艦を迎撃することができます。この特徴は海外の軍港でも見られ、ハワイの真珠湾の地形は舞鶴湾とそっくりな形をしています。 舞鶴湾 (出所:Google Map) 真珠湾 (出所:Google Map) 舞鶴湾 (出所:Google Maps) 舞鶴湾 (出所:Google Map) 真珠湾 (出所:Google Map) 真珠湾 (出所:Google Maps)舞鶴76 ファイナンス 2020 Nov.連載各地の話題

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