ファイナンス 2020年11月号 No.660
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(1930)には銀丁百貨店が開店。様々な商店、映画館や飲食店が軒を連ねる繁華街となった。銀丁百貨店は大正5年(1916)に創業した熊本初の千徳百貨店とともに戦前に開業した百貨店だが昭和51年(1976)に閉店。映画館も1軒残して撤退し、かつての映画館街とは様子が異なっている。歩兵第23連隊の跡地開発は大正末期から昭和にかけて実施された。大正14年(1925)、「熊本市三大事業記念国産共進会」が開催された。自治体が主催する博覧会で1か月半の会期中133万人の入場者があったようだ。ここで三大事業とは大正13年に開通した市電事業、給水開始した上水道事業、そして共進会の会場となった歩兵第23連隊の移転事業である。終了後に区画整理され、今につづく花畑町のオフィス街ができた。オフィス街を南北に貫く幅員50mの電車通りもその際にできた道路だ。市電の開業時は今のシンボルプロムナードを通っていたが、50m道路の開通を機に現在の電車通りに付け替えられた。再開発エリアに銀行も移ってきた。昭和8年(1933)に日本勧業銀行(みずほ銀行の前身行のひとつ)が花畑町に店舗を新築し唐人町通りから引っ越した。昭和26年(1951)には肥後銀行が練兵町の現在地に本店を移した。このように、練兵場、歩兵第23連隊の跡地に新しい街ができ、市電開通をきっかけとして街の中心は古町界隈から下通りに動いていった。熊本の拠点性とその背景平成24年4月、熊本市は政令指定都市に移行した。もっとも熊本は福岡や小倉と並ぶ地域拠点の歴史を持ち、移行の前から人口規模の割に都市の拠点性が高かった。最高路線価でいえば、熊本に最も近いのが東北地方の拠点都市の仙台だ。図3のように、仙台は熊本に比べ不動産市況に敏感という違いがあるが、地価高騰期を除けば概ね同じ水準で推移してきた。昭和55年から60年、平成10年から17年にかけて熊本の最高路線価が仙台を僅差ながら上回っていた。最高路線価地点(下通りファインビル前)の日曜日の通行量は令和元年で47,820人だった。この場所は平成15年頃まで50,000人弱で推移してきたが、平成16年、17年の郊外大型店の開業に伴って減少し、平成22年には32,000人台まで落ち込んだ。その後持ち直し、下通りのダイエー跡地に複合商業施設COCOSAがオープンした平成29年には記録が残る過去40年で最高の56,000人となった。ちなみにダイエー跡地は前述の大洋デパートの跡地でもある。大洋デパートは昭和48年(1973)の火災が引き金となって廃業した。全国の地方都市と同様に、熊本も既存市街地を遠巻きにするかたちでバイパス道路、さらに外側には高速道路が開通している。郊外に県庁が移転し、大型モールも進出した。それでも中心市街地が比較的拠点性を保っている。旧国鉄駅と離れているのも一因だろう。JR熊本駅は下通りから約3.5km離れており、それぞれ約2.5kmの距離がある天文館と西鹿児島駅、香林坊と金沢駅の間より長い。距離の分だけ駅の引力が弱かったと思われる。また、交通ターミナル機能が熊本においては旧国鉄駅だけでなく下通り近辺にあったと考えられる。市電が中心地と郊外をつなぐ役割を担ったとすればそのターミナルは下通りとなる。さらに今のサクラマチクマモトのある場所は昭和44年(1969)以降わが国最大級のバスターミナルが設置されている。開設当時の熊本交通センターバスターミナル、今の熊本桜町バスターミナルだ。一見、熊本の中心地の移動は舟運から鉄道へ交通手段の変遷と関わりないようだが、駅の機能に着眼すればやはり熊本の街の中心も交通手段の変遷に関係があるといえそうだ。図3 熊本と仙台の最高路線価の推移熊本が仙台を上回った年0100080060040020035394347515559634812162024282令和昭和平成(万円/m2)仙台熊本(出所)国税庁路線価より筆者作成72 ファイナンス 2020 Nov.連載路線価でひもとく街の歴史

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