ファイナンス 2020年11月号 No.660
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九州島の真ん中に鎮座する阿蘇山。広大な活火山を擁する火の国の県都の熊本市には明治の昔から九州を代表する国の出先機関が置かれた。明治4年(1871)、九州全域を管轄とする第六軍管の鎮台が熊本に設置され、後の第6師団司令部となった。旧制高校、いわゆるナンバースクールも熊本にあった。旧制五高は文豪夏目漱石やラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が赴任したことでも知られる。現在は九州農政局、九州総合通信局などが熊本にある。財務省の地方支分部局の九州財務局もある。福岡に北部九州を管轄する機関があるがこちらは財務支局という。坪井川舟運で栄えた唐人町その熊本の最高路線価は「手取本町下通り」にある。昭和35年(1960)を調べると「手取本町新世界グリル前」だった。屋上に展望台がある6階建のビルにあった新世界グリルは、下通りと市電が走る道路の南東角、今年閉店した熊本パルコの場所にあった。要するに戦後通じて熊本の一等地は変わっていない。下通りは今も昔も市内で最も賑やかな商店街で、当時は昭和27年(1952)に創業した百貨店「大洋デパート」が客足を牽引していた。それより前、明治大正期は下通りから歩いて20分ほど南の古町界隈が熊本の中心地だった。ここは坪井川の舟運の拠点で、なかでも川筋に沿った道の唐人町通りが栄えていた。古町は商業地であると同時に寺町でもある。碁盤の目の区画で、正方形のマス目の各々の中心には寺があった。古い地図を見ると細胞と核のようだ。薩摩の国を仮想敵とする防衛上の理由といわれる。また、古町界隈には銀行が集積していた。昭和35年時点ですでに街の中心は下通りに移っていたが、戦前に進出した銀行は引き続き同じ場所で営業しており、中心地の機能の一部、金融機能は往時の建物とともに残っていた。その一部は現存し、かつての中心街の風情を今に伝えている。明治10年(1877)に架橋されたことにちなみ名付けられた「明十橋」は、皇居の二重橋を手掛けた石工、橋本勘五郎による石造の眼鏡橋である。橋のたもとには大正8年(1919)に建てられた第一銀行熊本支店があった。その後、取り壊しの危機に瀕したこともあったが、市民団体の尽力で免れた。国の登録有形文化財に指定され、連続するアーチ窓が特徴の鉄筋コンクリート2階建は今も現役のオフィスビルである。坪井川にかかる眼鏡橋と銀行建築の構図は、熊本の近代を代表する古町の風景となった(図1)。古町の電車通りには富士銀行(今のみずほ銀行)があった。大正14年(1925)築の近代建築だったが後に解体され今は消防署になっている。新築時は長崎市に本店を構える十八銀行の支店で、昭和18年(1943)の営業譲渡で安田銀行の熊本支店となった。安田銀行図1 明十橋と旧第一銀行(出所)熊本市70 ファイナンス 2020 Nov.540C560C610C620C400D400D400D570C630C660C650C550C610C600C420D420D400D400D400D410D410D410D420D440D390D390D390D320D320D370D340D970C275D290D270D870C850C870C900C870C360D360D500D730C510C510C810C490D1,090C1,200C1,410C1,380C1,520C1,620C1,650C1,560C1,570C1,510C1,720C2,100C2,240C2,210C2,160C2,350C2,390C1,900C1,500C1,430C1,130C1,150C1,500C1,550C2,600C2,550C2,430C2,310C1,730C1,080C255E295E240E320D275D470D470D540C路線価でひもとく街の歴史第9回 「熊本県熊本市」再開発が織りなす街の発展史連載路線価でひもとく街の歴史

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